Getting Started No1

写真祭を作る 写真祭を立ち上げる、ということをテーマに少し書いてみたい。その着想がいつ頃生まれてきて、進めようと考えたきっかけは何だったのか。 手短に言えば、写真祭構想は2010年にアルル国際写真祭に行った時にすでにあったと思う。そして、Review Santa Feにレビュワーとして招かれた2012年に、ああ、こういう風にやれば写真祭はできるだろうな、という確信に近いものがあったと思う。 では実際にすぐに動けたかというと、そんなことは全くなかった。お金も会場も、そもそも参加者が来るのかどうかさえわからない。周囲の人間はみな戯言を話しているように感じただろう。 2013年3月、漠然とした写真祭構想が急に進みだした。 3月のある日のこと、六甲オルゴール美術館の館長がGallery TANTO TEMPOを訪れて、TwitterだかFacebookの僕の記事を読んで、六甲山国際写真祭の構想に興味があるとのことであった。 聞くと、彼自身がロッコーミーツ・アートという現代美術のプログラムを六甲山上で動かしていて、そのプロジェクトと連携する形で写真祭ができるのではないかという。六甲山上あたりで写真祭を!というのは実はずっと考えていたことだ。観光都市というほどに神戸は観光資源があるわけではない。写真祭にわざわざ来るために必要な要素は、やはり土地柄とその土地での記憶と言える。神戸市内ではなかなかイメージの湧かなかった写真祭構想だが、六甲山上だとすごくいいイメージが浮かび上がってきて可能性があると感じていた。その時に六甲オルゴール美術館の館長の訪問を受けて六甲山上の会場をいろいろ使わせていただけるという。 そこで、仮に、ということで11月に写真祭を構造する企画書を作ってみた。そうすると意外といけそうな気がした。 幸い、ポートフォリオレビューのレビュワー陣やゲスト写真家のイメージはたっぷりとあったため、なんとかなるのではないかと考えるようになってきた。 ある日、なんとなくパソコンで描いてみたイノシシの絵がツボにはまった。六甲山の稜線を描いて、その下にイノシシを2頭描いただけだが、この絵が生まれた瞬間、写真祭を生み出せると確信した。なんとなくこれが写真祭共通の絵になることがわかった。そういえばArlesの写真祭も動物の絵だったっけ。 つづく

Getting Started No2

アルルがすべての始まり アルルに行った際、そのディレクターであるフランソワ・エベル氏のインタビューを取るなかで、彼らが写真祭を維持することに相当苦労している様子が見て取れた。彼らは巨大な資金を運用してはいるが、旧来の方法で捉えられる以外の写真、拡散する写真、もはや見た目ほど中身のないままそれぞれが散り散りに広がってまとまりを欠く写真というメディア、芸術に手を焼いているかのようだった。写真について、エベルさんは「写真は爆発した」となんども表現した。そのことが僕の心の中にしんしんと積もって、写真というものがまるで生き物のように動き回って捉えどころのない怪物に変節しているのだ。だからこそ、この時代の写真の意味をイベントやインフラに当てて考えてみることが、結果として写真の祝祭について深く考えることにつながったのだと思う。。 実際に写真祭を構成するときに、何をコンテンツとするかはすぐに発想することができた。僕はReview Santa FeやAngkor Photo Festival、シンガポールの国際写真祭に招かれた経験があったので、それらの中核にあるコンテンツをこちらで真似れば良いわけだ。ポートフォリオレビュー、展覧会、写真集イベントなどなど。ただ、そういうコンテンツはどこの写真祭にもあるけれど、それらが仮に写真祭の構造の柱をなすものだとすると、それだけでは何か足りない気がした。 Review Santa FeやAngkor Photo Festivalなどはその足りない何かを教えてくれる。彼らもそれを作ることに腐心しているもの。 実は、Review Santa FeとAngkor Photo Festivalのディレクター達は、僕が考えてきたものとピッタリ符合するコンテンツ以外のものに気がついていた。なので、それが僕が写真祭を立ち上げることに非常に影響したことは言うまでもない。 日本では、政治経済教育外交、どれをとっても欠如しているように見えるものがある。それは一言では言い表せないが、本質的にはイマジネーションというべきか、想像力が足りない。そして、人と人のコミュニケーションが足りない。そしてコミュニケーション能力が圧倒的に足りないと感じている。 詳しいことは別の項で書くことにするが、僕が立ち上げる写真祭で核になるものを、僕は教育とコミュニケーションに置くことに決めた。そしてそれらを動かすのは実行委員会ではなく、六甲に集まってきた人々により作られるコミュニティーである、と定義してみるのだ。 そうすると僕の気持ちは急に晴れやかになった。たとえば豊富な資金をもっているグループが写真祭を立ち上げたら、六甲山国際写真祭のような小さな所帯やアイデアでは到底かなわない。とすると、どうすればそういうグループなり写真祭と渡り合えるのか。それは、コミュニティーベースでの写真祭を最初から標榜することだと直感した。 つづく

Getting Started No3

コミュニティーを作る こういうことが実際に可能かは集まった人々の気持ちと熱意によるものが多い。Angkor Photo Festivalなどは、中心となるコーディネーターが本当に母親のような初老の婦人で、彼女を母のように慕うアーティストたちが写真祭を牽引していく。Antoine d'Agataやその他のアジアの写真家達が、無償ながら熱心に後進の指導を引き受けて写真祭の屋台骨を支えている。アメリカのReview Santa Feは、規模はさほど大きくはないが、全米でも有数のレビューであることを歴史的に証明して見せることによって、Santa Feという宝石のような美しい小さな町に強固なコミュニティーを持っている。 さて、六甲では何ができるだろう。 ここで大事なことは、僕がもともと写真界とはつながりのない非写真系の人間だということだ。僕には写真界とのしがらみやカメラメーカーなどとのつながりもない。だから、無責任でない限り、誰かにとやかや言われないで好きなように写真祭を組み上げることができる。もう一つは、六甲山国際写真祭は世界から見て一度は訪れたいと思うような写真祭であればいいと考えている。一流の写真祭である必要性を感じているわけではない、ということだ。一流の写真祭、というものがどういうものかを言い当てるのは困難だと思うが、運営を大きくして数千万単位のお金を動かして写真祭を取り仕切るのは大変だ。小さな山間の町で3日程度の写真のイベント、2-3つの展覧会にワークショップ、ただしレビュワー陣は超一流。こういうアイデアならなんとかなると考えたのだ。 幸い、Review Santa Fe、Angkor Photo Festival、古くはArlesなどを訪れて少しずつアーティストや写真専門家などと知り合いになってきたのも大きかった。僕の「コミュニティー」という言葉は魔法のようにみんなに受け入れられた。なんだか日本の経験の浅いギャラリストが日本に写真のコミュニティーを作るらしいよ、ってな感じで受け入れてくれたのだ。「そういえば日本って写真のコミュニティーってあるんだっけ?」そういう問いかけがたくさんある。日本の写真の中心はどこで、誰が仕切っていて、どのような写真祭があるのか、海外の人はまるで知らない。彼らの知っていることはニコンサロンぐらいで、写真賞や写真祭は全くと言っていいくらい誰も知らない。とすると、僕のコミュニティーをつくりたいという気持ちはとても受け入れられやすいものだったわけだ。   つづく

Getting Started No5

逆算すると6ヶ月 2013年11月にひとまず写真祭を実行する。そう決めたのは同年5月だった。5月に懇意にしていた写真界隈の友人たちを集めてミーティングを開き、小さな企画書を渡して構想を打ち明けると、もうそれはみな口を揃えてやめておけという。ひとや資金、会場、アーティスト選び、そのどれもが企画書から欠けていて、こんな構想は理解できないし応援できないという。 そこで、逆にどういう方法なら実現可能かと問いかけると、みな口ごもって何も言ってくれない。カメラメーカーから資金提供を受ければいい、とか、人気のアーティストを呼ぶ以外に道はない、とか、ぽつぽつと言い始めるのだが、今度は僕が気に入らない。僕としては、写真祭をコミュニケーションの場にしたいわけだから、インダストリーと手を組むよりも、皆で作りあげる写真祭というイメージで進みたいと考えていた。ポートフォリオレビュー、シンポジウムに、展覧会、スライドショー、トークショー、サテライトイベント、ワークショップを加えた7つくらいのプログラムを提案して、実現可能な箱をいくつか用意して、それぞれが資金的にも平衡するようにすればいいと踏んでいたのだ。そういうイメージは僕の中ではほとんど出来上がっているのだけれど、それを皆に伝えるというところでいつもつまずいていた。それも無理のないことで、そもそも存在しないものを空想して作りあげるのは慣れたものでないと困難なものだ。それをやってのけることができると判断するのには、実際にAngkor Photo FestivalやReview Santa Feなど、大きなイベントを目撃した経験がないと難しいと考えた。 そこで、ナショナルジオグラフィック・ジャパンのワークショップでご一緒させていただいた経験豊富な太田菜穂子さん、いろいろプロジェクトを共有させていただいたB GALLERYの藤木洋介さん、冬青社の高橋国博さん、横浜の写真祭立ち上げに関わった永田陽一さんなどにこんな写真祭をやるけれど、手伝ってもらえるだろうか、と問い合わせてみると、みな手伝ってくれるという。そこにAntoine d'Agata氏から連絡がきて、11月に日本で会えるのを楽しみにしている、という返事が届き、さらに6月に訪れたReview Santa FeのLaura Pressley氏、そこで知り合った写真編集者のAmber Terranova氏、アーティストなどを誘い、シンガポール国際写真祭のディレクターGwen Lee氏、さらに太田さんの誘いで東京画のアーティストが4名、メインゲストに写真家渡邉博史さんなど、Facebookで繋がったマレーシアのSteven Lee氏、フィラデルフィアのIto Tsuyoshi氏など、次から次へと応援に駆けつけてくれることになった。その全てが「コミュニティー」という言葉に反応してくれた結果だったと思う。東京の熱心な写真家達が前年のワークショップで関わりができていたのも大きく、みな写真祭開催を心待ちにしてくれた。そんなこんなで、ドタバタは続くのだけれど、8月の終わりには企画書の資金面を除くすべての欄が埋まってしまった。 そうやって、動き始めると運営のとやかやは「やってみないとわからない」と言い切れる。皮算用はもっとも得意とするところだ。自分では勝負師とは思わないが、何かをかけて大切なものを手にいれる、という体験が周囲に及ぼすものは大きい。そうやって写真祭は動き始めた。 逆算するとたった6ヶ月。その時間で実現可能な小さな写真祭で十分だった。 つづく

Getting Started No4

Antoine d'Agataとの出会い そんななか、かなり鮮烈だったのがAntoine d'Agataとの出会いだろう。2011年のAngkor Photo Festivalにキュレーターとして出かけて行った際、先述のAngkor Photo FestivalのコーディネータFrançoise Callierが用があるというのでSiem Reapのオールドマーケットに出かけてみると、なにやら重要な人を紹介するという。カフェでFrançoiseと落ちあい待っていると、一人の坊主頭の目のぎょろっとした男がテーブルにやってきた。ん?どこかで見たことがあるぞ、と思っていたら、渡した名刺をもう一枚よこせというので渡すと何やら細かい字で名前を書き始めた。Antoine?なんとそれがマグナムのAntoine d'Agataだった。 Antoine d'Agataといえば、僕はアルルで作品をたくさん見かけて、その鮮烈な印象を失わないでいたから相当好きだったと思う。アルルから帰国後写真集やテキストも集めていた。そのAntoineが目の前にいてなにやら日本と僕はよくつながっているんだよ、知っている人も沢山いる、写真集のプロジェクトもあるからね、などと矢継ぎ早に話している。横からFrançoiseが、このTakekiというのは日本で写真祭をやりたいらしいよ、なんて紹介されると、Antoine d'Agataは「日本で?それは素晴らしいね。なんでも手伝うからいつでも連絡しなよ」なんて言っている。なので、僕は写真のコミュニティーの話をして、写真祭を軸に教育なんかもやりたい、と話し、別れ際にはもうAntoine d'Agataを日本に呼ぶことを決めていたと思う。 実際、2013年の初写真祭立ち上げにAntoine d'Agataが風邪をおして六甲山に来てくれた。彼は日本を良く知っていて、いいところも悪いところもいくつも言えるくらいだった。その中で、コミュニケーション、というキーワードでAntoineと話し合うことがあって、それを実際にかなり意識したある事件が六甲山上で起こったのを今でもよく覚えている。これは、まだ少し後で書いてみたい。 そうそう、Antoine d'Agataの顔のイメージをかたどった絵ができた時にはかなり嬉しかった。本人はどう思っているか知らないけど。   つづく

Getting Started No6

Non-TOKYOであること もうひとつ、六甲山国際写真祭が目指していく上で重要なことがある。 それは神戸や六甲山という土地、地域性をどのように生かすかだ。神戸はもともと気質的には先取り気質。今でもファッションやデザイン、最先端医療の拠点としての都市に役割を与えるのが行政の施政方針に明記されており、それを構造することに腐心している。元来、神戸にはSnobな港神戸のイメージがあり、優れた文化人やアーティストがいたり、洒落たバーがいたるところにあったりした。ところが、阪神淡路大震災が発生して壊滅的な被害を受けて以来、そういう人々、遊び場所、ビジネスが結びつくような部分が皆無になってしまった。どこの都市も都市のイメージ作りには相当苦労していると思うが、震災は芸術や文芸の素地をすべて地ならししてしまったのだ。そのような中、ファッション、デザインを特徴づけて都市計画を構成すること自体は悪くないアイデアだ。ただし、東京や京都のような、そこにいるだけで感動をもたらすようなメトロポリスな都市構造や歴史もないわけだから、まあ小さい街だなという印象は否めない。とすると、都市構造、都市計画に必要なものは人やアイデアなどのソフトコンテンツだということになる。ひとが生き生きと自分の生まれ育った街を誇りに思いながら暮らすということがとても重要なのだ。ひとは親を選べないのと同様、暮らす街も好きに選べるわけではない。 一方で、東京は本当に素晴らしい日本のキャピタルだ。丸の内や銀座、新宿に佇むとその都市のスケールやきらめきがよくわかる。東京にも時々おとずれるが、いつ行ってもそのスケールの大きさに驚かされるし、人の行き交う様に見とれてしまうほどだ。ビジネスや教育、アートなどもスケールが大きく、写真産業や写真にまつわる様々な要素がここで育まれているといっていい。もちろん、いいことだけではないだろうことも想像に難くないのだけれど。 神戸で東京のビジネスモデルは応用できない。東京は素晴らしいが、何もかもが素晴らしすぎて、なにより大きすぎる。神戸の地を生かすとすれば、そのコンパクトさと先どり気質があれば十分だ。Non-Tokyoでいよう。そしてコンパクトだけれど指向性の強いコミュニティーを作ればいい。それがとても重要なことのように思えるのだ。