写真祭を振りかえる-展覧会その2

By | 9月 11th, 2015|未分類|

Haley Morris-Cafieroは、その作品の作り方がジャーナリスティックにもアートにも受け取ることのできる極めて繊細な作品を展示しました。自身がとても太っていて、ダイエットを主題に撮影する過程で思わぬ発見をするところから作品が発想されます。通りゆく人々が自分の存在のよって思わぬ行動をとったり、奇異な視線で彼女を見ているカットを見つけ衝撃を受けるのです。その後の撮影は大変興味深いものとなりました。1シーンで500カット撮影し、自室に帰ると写真を入念にチェックする。そうすると大抵、人々のなんとも言えない表情で彼女を見ている写真に出くわします。この写真に提示されているのは、視覚的には自画像としていつもイメージに介在する自分、そして視線を送りつける他者、そしてその場の正当性を示すために舞台装置にあげられた無関心なその他の人々です。助手あるいは三脚を置いての撮影は、コンセプトの単純さとも相まって手法が安定しているため、写真表現としてのブレはありません。自分に一瞬の特別な関心を寄せる人たちを捕捉するというのがコンセプトになっています。人々が集まる場所で彼女を見ている人々の表情を的確に捉えることによって、彼女自身とそういう蔑むようにみつめる"他者"との間に立場の逆転が起きる。他者を見下すように見る人々を逆に罠にかけることによってあぶり出す、ある意味で恐ろしい写真とも言えそうです。これを発展的にとらえると、私たち自身が他者に向ける視線や一瞬の判断に行き着きます。何もこの作品のようにあぶりだされるという過程がなくても、私たちの他者に対する視線や行為はいつも誰かを傷つけ差別している可能性がある、という気づきに至らせてくれるのです。こうした写真に自ら介入して表現する写真家が増えています。ただ景色やもののある様子をとらえるのではなく、自分がその光景に介入し社会的なメッセージの表出を試みるという方法です。彼女の作品は、アメリカの大きなニュースメディアにも取り上げられるなど、人々のコミュニケーションを促す結果になっていますが、それでもなおそのコミュニケーション自体はHaleyの肉体的特徴を揶揄するようなものばかりだ、と本人は話していました。 Wenxin Zhangは中国生まれ、アメリカ在住の若き女性写真家です。Hefeiという北京近郊の町で生まれ育った彼女は、若い時から町を出たいという願望を持って育ちました。Hefeiは退屈な都市で、退屈な夜にはそういう夢を夢想して過ごしたのです。時が過ぎ、実際彼女は中国を離れて写真の勉強をするためにアメリカに渡ります。夢が実現したのです。しかし、そこで待っていたものは差別や孤独でした。故郷とアメリカを行き来するうちに、彼女はまた夢想を繰り返します。その夢想の中で描いた連続しない5つの物語がこの作品のテーマとなりました。中国への思いと若物特有の背伸びする気持ち、両親との関わりや性愛が物語として語られ、それに写真が付随するという形で作品が編まれていったのです。私は水槽の中にいて水槽の外の大人の世界に憧れてはいるけれど、水槽の中の退屈な毎日に安寧の思いもある、そんな中で夢想した物語なのだ、というと平坦すぎるかもしれません。欧米の写真家の作品でも、テキストが作品の中心をなすものとして提示されていることは珍しく、このような作品は見たことがないという専門家が多かったと思います。ただ、このシリーズの素晴らしい点は、夢見がちな(あるいは鬱屈した)女性が日常の風景を切り取って間接的に自分の状況を表象するありがちな手法ではなく、あくまでもナラティブな物語に従って編集が進められていることです。これについてWenxin本人がトークショーで語っていたことですが、どの写真もそれぞれ物語に強く関連するように注意深く選ばれているが、それぞれの写真はお互いつながりを持たないように選ばれている、その写真と写真との間には観覧者の解釈の余地を残しているのだ、と論理的な説明がなされていました。若いがゆえに作られた作品ではあるのですが、物語を中心に据えて全体を眺めると胸に迫る少女の思いが鮮やかに見えてくる、そんな作品なのです。彼女の作品は、各地のレビューでも評価が高く、展覧会や出版のプロジェクトなどが予定されています。 このように、六甲山国際写真祭では4名のメインゲスト写真家を迎えて、それぞれ特徴のある写真のスタイルを提示してみました。アートなものからジャーナリスティックなもの、社会的なものからパーソナルなもの。写真の表現の多様性も含めて、写真にしか表現できないストーリーを提示したのです。