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六甲山上の宿泊について

By |2013-10-11T04:18:35+09:0010月 11th, 2013|Mt.ROKKO, RAIEC|

実行委員会の杉山です。 11月8日−10日まで六甲山上で六甲山国際写真祭が開催されることに関連して、各方面、また非常に多くの方から宿泊のお問い合わせをいただいております。 実行委員会としては、現在写真祭参加者および写真祭に出資をくださるゲストのみなさまの宿泊について調整を行っているところですが、宿泊に関する個別のお問い合わせにはお答えしかねる状況となっています。また、実行委員会を通じての宿泊の予約は受け付けておりません。 六甲山上の写真祭期間中の宿泊施設は、行楽シーズンでもあり、また六甲ミーツ・アートなどのイベントと重なっているためにその確保が非常に厳しい状況となっています。まだ宿泊が可能な施設がある可能性もありますので、各施設にお問い合わせの上各自でご予約をくださいますようお願いいたします。また、神戸市内からのアクセスも比較的容易となっておりますので(六甲ケーブルが台風18号の影響で不通ですが、代替バスが運行されています)、六甲山上の宿泊が困難な場合は三宮などのホテルをご利用くださいますようお願いいたします。 宿泊に関連して、六甲山国際写真祭への資金のご提供をいただける場合は、六甲山ホテルなどのペア宿泊券(8日一泊)などを含めた宿泊特典付きのクラウドファンディングを実施しておりますので、こちらをご利用ください。ゲスト写真家やレビュワーなどとの交流は、レセプション、ミーティングプレイス以外にはプレミアムコース以上のVIPパスを保有していただく方に限られますので、VIPパスをお得に手に入れていただけるこのコースをぜひご利用ください。 このコースは数に限りがありますので、お早めにお求めくださいますようお願いいたします。 http://rokkophotofestival.com/cloudfunding2013.html どうぞよろしくお願いいたします。 RAIEC 杉山武毅

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写真展情報を掲載しました

By |2013-09-29T22:46:07+09:009月 29th, 2013|Mt.ROKKO, NEWS|

ⓒERIKO KOGA Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVALで開催する写真展情報を掲載しました。   11月8日(金)から10日(日)のわずかな期間ですが、六甲山頂では写真展を開催します。 ゲスト写真家の渡邉博史さんの写真展を六甲山ホテルで開催するほか、「東京画」の4名の写真家の写真展をアルペンローゼにて開催します。   六甲山ホテル 11月8日(金) - 10日(日) 渡邉博史写真展   アルペンローゼ 11月8日(金) - 10日(日) 「東京画」 古賀絵里子 所幸則 鋤田正義 大西みつぐ [...]

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チケット・パスを販売開始しました

By |2013-09-21T16:16:23+09:009月 21st, 2013|NEWS|

予定より少し遅れてパスチケットの販売が始まりました。現在Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVALの公式ウェブサイトにて好評販売中です。 今回の写真祭では、1Day Pass(8日9日各1日)、2Day Pass(8日9日通し)のパスがあるほか、学割にも対応いたします。学割は事務局で販売しますので、電話またはメール、直接Gallery TANTO TEMPOにお越しいただき学生証をご提示ください。 http://rokkophotofestival.com/ticketing2013.html なお、1Day Pass、 2Day Pass、学割パスや、各種資金集め用のセットについているVIP Passを含めて、すべてのパスに写真祭カタログの引換券がついています。 また、パス、チケットとは別に、写真祭の資金を作るためにみなさんにご参加いただけるクラウドファンディングを実施しています。これは、パスや宿泊券、特製トートバッグなどをセットにしたお得なセットです。 http://rokkophotofestival.com/cloudfunding2013.html 参考までにスーパープレミアムコースのセット内容を記載します。 セット内容 ・六甲山ホテルペア宿泊券(8日1泊分:海が見える部屋) ・神戸市内からプライベート送迎つき ・8日と9日の各種イベントに参加できるVIP 2Day [...]

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Photo Communication Workshop Report

By |2013-07-21T15:56:09+09:007月 21st, 2013|RAIEC, Workshop|

さる7月13日(土)14日(日)の二日間にわたって、表題の写真コミュニケーションワークショップを新生Gallery TANTO TEMPOにて開催しました。12名の写真家と、1名のギャラリスト、3名の講師、2名のファシリテータと僕、合計19名で初めての開催となるワークショップが始まりました。   13日午後1時に全員が遅刻することなく集合、その場で名札と配布資料をお渡しし、まず僕の方から写真コミュニケーションワークショップの開催目的や意義について、また期待する結果についてお話しし、Opening Remarkとしました。この中で、日本の写真が外からどのように見えるかを概説し、社会の中での写真の役割やアートの事情について説明し、コミュニケーションを豊かにとることに必要性について話しました。 つづいて、参加写真家の全員にお持ちいただいた作品のプレゼンテーションを各3分間でしていただきました。それぞれの方が自分の作品を苦労して説明しているのが印象的でした。ここでは参加者のコメントや議論などは行ないませんでした。   次に、写真家を講師とあわせて3つのグループに分け、太田菜穂子さんと僕の進行でグループワークとして写真の理解をすすめるセッションを開催しました。ここでは、それぞれの写真家が制作したプロジェクトに対して、イメージから浮かび上がるリバースに見えるテーマ、様々なモチーフを言語、調子、感想として写真の要素が語られるようにしました。そうすることで写真家にとって思いもかけない言葉が浮かび上がったり、考えたこともないようなモチーフが立ち現れたりする一方で、自分の写真が分断・分析されていくことに戸惑いを感じる方もいたと思います。ここでは、作品に対する批判や批評がなされるのではなく、あくまでも視覚的技術的な要素を客観的に抽出するということに専念するよう伝えました。さらに、これらの言語化の作業を経て、各グループについて2名の写真家を選んで写真家の思いを汲みながら新しいステートメントを作り他の参加者に対して発表するという作業を行いました。「私の作品は・・」とつながるような、シンプルで説得力のあるステートメントを要求していましたが、なかなか短い時間で文章にまとめていくということが難しい初日のグループワークでしたが、もちろんセッションの後半は翌日のグループワークにつながるような兆しが見て取れたのが印象的でした。   つづいて、ゲスト講師である渡邉博史さんの講義を聴きました。渡邉博史さんはロスに活動の拠点を置く日本人写真家です。日本人であるというアイデンティティーをいかにして追求しながら写真というフィールドでチャンスをつかんでいくか、という作品作りの実際と戦略について話していただきました。また現在進行中のプロジェクトについても話していただきました。この中で、写真を制作するというアーティストとしての覚悟は、いかに社会にコミュニケートしてコミッションワークをとってくるかを問いかけるべきで、その辺りが弱いと写真家として自立することは難しい、ということを話しておられました。       初日はこれで終了し、全員が懇親会場に向かいました。三宮はじめじめした天気でしたが、会場の料理屋で料理をいただきながらいろいろ情報交換をしました。   つづく    

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レビューを受ける5

By |2013-06-29T10:46:17+09:006月 29th, 2013|Portfolio Review, Story|

6月にReview Santa Feに参加して、その写真のレベルの高さに衝撃を受けたことはFacebookあたりでも書いた。僕は一昨年に一度取材でReview Santa Feを訪れており、そこから多くの写真家を日本で紹介したこと、ART in HOSPITALなどの社会アートプログラムを実施してそれが複数の写真家を通じてReview Santa Feの実行組織に紹介されたことなどが評価されて、今年のReview Santa Feではレビュワーとして招かれた。2日間で27名の写真家のポートフォリオレビューを実施するという非常にタフなレビューだったが、帰国して参加写真家のイメージを振り返るとそのレベルの高さに改めて驚かされる。ざっと見積もっても延べ18名の写真家に異なる3つのテーマでのグループ展、3つの個展が開催できそうで、となると1年中Review Santa Feから誘った写真家のプログラムが開催できる計算になり、それぞれがとても面白いプログラムになるだろう。既に構成を考えている一つのグループ展が、女性の写真家を取り上げたグループ展だ。アメリカやカナダ、ロシアから合計14名の女性の写真をレビューしたが、そのうちのなんと6名がパーソナルな素材、身近な社会のストーリーを提示していた。面白いのは、これらの写真家が写真イメージの強さとセレクションで勝負をしており、しかも家族をめぐるストレスを丁寧に描いたり、アートの装置を取り入れてしっかりと美的に描こうとしていることだ。日本で見かけるパーソナルな写真をみると、写真があちらこちらを向いていたり、どうしてその写真が含まれているのか意味の分からない、説明が必要なイメージが混ざることが多いが、Review Santa Feで見たものはタイトルやテーマと相まって、ストーリーの描き手と受け手の間にイメージを置いて、十分コミュニケーションがとれるものになっていた。そう、ポートフォリオレビューの最大の武器といえるものは、このコミュニケーションなのだ。 今日はこのコミュニケーションについて書いてみよう。 写真がメディア、またはビジュアルランゲージであるということに異論を挟むものはいないだろう。写真は、そのイメージにある種のメッセージを載せることができるからこそ、広告や宣伝、アートなどに広く使われている。写真は、イメージとして単純に理解されるものと考えられがちだが、多くの場合それは言語化され、視覚から言葉に変換されて理解されることがある。例えば、富士山を撮影した夕刻の写真があるとすると、そのイメージを見た瞬間に「富士山」「夕方」という言葉が生成されるので、僕たちはそのことから写真の認識をすすめることができるのである。ドキュメンタリーの写真の場合、例えばバングラデシュの水上生活を送る人々を撮影したシリーズがあるとすると、多くの人はそれが水上生活を送っている人々だと言語化して理解するだろう。ところが、イメージが弱いとそれがどこの国のどういう状況なのかなど、やはり言葉で補ってやる必要がでてくる。なぜなら、言語化と言っても、それがバングラデシュの水上生活であると理解するには、報道なり何らかの方法で知識としてその状況を知っている必要があるからだ。ところが、仮にそれがどこの国かは知らなくても、そういう暮らしをしている光景そのものが強く美しければ、理屈を越えてひとの心に届くものだ。ひとの心にとどきあるいは人の心をこじ開け、世界には大変な暮らしがあるものだ、と納得させるあるいはひとの心に染み渡る力があるとすれば、それこそがアートだし、その作用をもたらすものがコミュニケーションだと僕は考えている。 先のポストにも書いた音楽の陶酔。これもまさに音楽を通じて演奏家と聴衆がコミュニケーションをとることによって立ち上がる。とすると、写真のコミュニケーションとは何なのだろう。僕は、やはりこの部分は写真家の、社会におけるどういった立場から誰に対して何を訴えたいのか、どうしてそのテーマを選んだのか、そのストーリーをなぜ今語ろうとするのか、社会に届けるためにどれほど周到にイメージを作成しているのか、そいういうものが紡がれた結果としてコミュニケーションが立ち上がってくるのだと思っている。そしてそれはわかりやすい方がよく、美的である方がよく、タイムリーである方がいい。 これも私見になるが、一例を挙げよう。セバスティアン・サルガドのアフリカの貧困、紛争、飢餓を扱う彼の写真は、2009年に都立写真美術館でも紹介されておおきな反響があったと思う。イメージは美しく、アフリカの大地を覆う苦悩を表出しながら、どこまでも強く美しいものだった。しかし、中には、凄惨なイメージとして死を想起させるものもあり、美的なものと死との対照に嫌悪を訴える人たちがいたのも確かだ。貧困や死に対して美的に撮影するそれらの作品や制作姿勢に対して批判的な意見があったのだ。それがドキュメンタリーなのかアートなのかというお決まりの二元論におとしいれて批評する人が現れたり、それらの作品が売買されたりコレクションされたりすることを露骨に批判する人もいた。しかし、もしサルガドのイメージが僕が撮る写真のように凡庸なら、いったい誰にアフリカのメッセージが届いただろう。弱いイメージは誰にも見向きもされず、貧困や紛争や飢餓にさえ世界の視点は届かなかっただろう。多くの海外メディアがアフリカ報道のドキュメンタリー番組を資金を駆使して制作する一方で、サルガドのようなアートの装置をもった写真家が美しい大地を人々とともに歩き、生活をともにして写真を撮る。どちらかが優れている、どちらかが劣っている、そんな二元論に意味はないだろう。 サルガドの写真は、観衆の心に侵入する糸口をもっている。それは日頃そういった話題に無関心な観衆であったにしても、その作品を前にするとその前を立ち去れなくする魔力のようなものだ。さらに、彼の作品はその作品のモチーフについて深く考えるように仕向ける。そして、作品の前を立ち去ったあとに、それを見る前と後とではまるで違った世界の見え方を観衆に提示する。それによって、観衆は自分が得た新しい知識を動員してその後の行動を規定することができるようになる。 つまり、以下のようなことを成り立たせるのが、写真を通じたコミュニケーションなのだ。 initiation - [...]

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レビューを受ける4

By |2013-06-28T23:27:17+09:006月 28th, 2013|Portfolio Review, Story|

ポートフォリオレビューの実際について、これまで3回のポストを書いた。それぞれがある種総論的で、少し主観的な要素もあったと思うが、写真の評価という点でギャラリーやレビュワーがどういう点で写真を見ているのか、という部分はある程度参考になるのではないだろうか。もちろん、ギャラリーやレビュワー、枠組みやコンペなどすべてが同じようにはいかない。前にも書いたけれど、写真の評価の総和はあまりぶれない。つまり、いい写真だと評価される写真家は、ほとんどのレビュワーがだいたいにおいていい評価をしている。かといって個々のレビュワーがぶれない訳ではない。しかし、もっとも大事なことは、決してレビューそのものを作品制作の目的にしないことだろう。レビューはあくまでもレビュー。大切なのはレビュワーに認めてもらうことではなく、その背後にあるマーケットや社会に出て行くことであり、それはつまり制作した写真が社会につながるよう考え続けている必要がある、ということだ。 ここで少し音楽の話を書いてみたい。かなり前になるが、大阪のフェスティバルホールで大好きなボサノヴァの大御所ジョアン・ジルベルトのコンサートを聴いた。非常に高齢で来日できるのかも心配だったが、結果としてとても素晴らしいコンサートだった。僕の大好きなイパネマの娘から始まって美しい旋律のコルコバド、そしてデサフィナードなど、有名なナンバーをギター一本で弾き歌うのだ。僕はボサノヴァのリズムとジョアンのささやくような声に酔いしれた。 こういうコンサートのときにとても感心することがある。音楽の場合、プロのアーティストたちはどうして一度もミスタッチをしないで演奏を終えることができるのか、とても不思議なのだ。僕自身もボサノヴァギターを弾き、歌も原語で歌うが、とてもとてもミスタッチなしでは弾き通せない。ここにアマチュアとプロフェッショナルの大きな違いがある訳だ。ジョアンはその道60年以上とも言えるプロフェッショナル。観衆から高額なチケット代をとる訳だから、ある意味においてミスタッチなどは許されない。そう考えると、プロフェッショナルというものがいかに素養をもち鍛錬を積んで高いレベルの仕事をしているのかがよくわかる。そしてそういったプロフェッショナルになれる確率、興行収入やレコードの売り上げで生計を立てることのできる音楽家の割合は、おそらく音楽人口の0.01%に満たないだろう。 写真の場合はどうだろう。写真の場合、特別なのは、ギターを演奏する、という行為に相当する撮影の部分でカメラの存在があることだ。この「ミスタッチ」という技術的な問題について、カメラという技術がミスタッチをかなりな部分カバーし、もはや誰もが適正でピントのあった写真を撮ることができるようになったという点が、自動演奏のできないギターの演奏とはことなっている。その昔、まだ露出計とカメラが分離されていたような頃、写真家の多くは経験的なさじ加減で露出を決めていただろう。カメラも高額で、誰もが手に入れることができる今とは違って、写真家になるというのには相当高いハードルがあったに違いない。現在の写真は、技術で補われた道具を使って、ほぼ自分の思い通りのイメージを手に入れることができる時代なのだ。そう理解すると、写真をめぐる制作環境がいかに恵まれているかがわかる。だからこそ、撮影技術や出力の美しさといった基本的な技術の部分の緻密なコントロールはもはや当たり前、その撮影の背景にあるストーリーやテーマが特別に重視されるようになってきているのだ。逆に技術なんて放り出して、ストーリー勝負でiPhoneなどで作品を制作することだってできる。そのストーリーがタイムリーであれば、NY Timesなどの記事に採用されることだってある。とすると、写真におけるミスタッチとは何だろう。僕がレビューで感じるのは、誰かに似せたストーリー、観衆を意識しない一人よがりな作品。タイミングのほころび、脆弱なモチーフ、妥協した構成など。不勉強、美しくない、素養の足りなさというのもある。どこかで賞を取った、というのもなにかミスタッチなことがある。 現在の写真人口をどのように計測しうるのかはわからない。しかし、写真を楽しんで何らかの形で写真を発表したり写真をかなり高いレベルで指向する人たち、プロと言われている写真家の総和の中で、本当に写真のみを生業としている人たちがどれほどいるのか、大変興味深い。本来、この数字は音楽のそれとそれほど違いがないはずだ。写真の世界も、実は相当に厳しい競争世界であるはずで、しかもその裾野は大きくなる一方だ。「ミスタッチ」を許容すると世界が逃げていく。ミスタッチを切り離す努力をして初めて、世界の入り口に立てるような気がする。まあ、ここまで書くと辛口すぎるけれどね。でも、国内外で活躍しているトップクラスの人たちの作品をみてみると、まずその辺りは安心してみていられるはずだ。これが写真の評価の総和であるし、ミスタッチのなさなのだと思う。  

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写真コミュニケーションワークショップ

By |2013-06-26T11:21:23+09:006月 26th, 2013|Organization, RAIEC, Workshop|

表題のワークショップを7月13日14日の2日間、神戸のtheory of clouds gallery &communication worldwideにて開催します。 このワークショップは、Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVALのプレ・ワークショップとして開催するもので、写真家、写真家を目指す方々や写真の評論、研究、ギャラリー開設など、写真の担い手になろうと考えている方にご参加いただけるコミュニケーションを主体としたワークショップです。また、Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVALの運営スタッフになることを希望される方、レビュワーやポートフォリオレビューに参加していただく方向けにも、大変有意義なワークショップとなると思います。 ワークショップの内容は、写真というメディアを使い、写真表現からたちあがる豊かなメッセージをコミュニケーションを通じて読み取ります。さらに、それらをテキスト化し、キーワードから作者のストーリーを再構築するトレーニングを行います。また、写真家渡邉博史さんの作品づくりについての戦略的な考察や、キュレーターでRAIECのコミッティーメンバーである太田菜穂子さんの海外プログラムの企画運営についてもお話しいただき、全体として写真コミュニケーションの基本的な能力を開発します。   講師 渡邉博史(写真家) 太田菜穂子(キュレーター) 杉山武毅(ギャラリーディレクター・Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVAL総合ディレクター) 菅武志(英語シニアアシスタント)その他 2013年7月13日(土)14日(日) スケジュール [...]

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レビューを受ける3

By |2013-06-25T16:38:07+09:006月 25th, 2013|Portfolio Review, Story|

PHOTO TAIPEI 2012 写真を制作する上で皆さんはどんな戦略をもっているのだろう。 こういうテーマで話しだすと少し脇道にそれるような感じもあるのだけれど、少なくともただ楽しんで写真を撮っている大多数の写真愛好家と、写真のレベルを少しでも上げていきたいと願っている表現者指向の人々と、写真で生計を立てるくらいに写真にかけている人と、写真に関わっている人たちは本当にたくさんいらっしゃるというのが国内の状況かと思う。なので、それぞれのセクションの人たちでも、特に写真のクラスをあげたいと思っている人たち、プロフェッショナル写真家として写真にかけていく気持ちの強い人たちにとってレビューを受けるということは本来的にどういう意味があるのかを考えてみたい。むしろそういうポピュレーションにとって、写真で生きていこうとするならある種のレビューは必須といえる。ギャラリーへの持ち込みしかり、写真集出版社への持ち込みもしかり。しかし、特に、この国には世界でも珍しいカメラメーカーがひしめき合い写真産業というものがものすごい勢いでカメラを生産し続けて、キャンペーンをはり、恐ろしいほどの研究開発費を使って新機種を開発し、ユーザーをつかまえようと躍起になっている。ユーザーはと言えば、やはり新機種にはめっぽう弱く、僕も含めてだけれど、新製品がでるとそこに群がっていくという構造もある訳だ。日本人は本当にカメラが好きなんだと思う。日本の写真の構造が海外と比べて特殊な部分は、このカメラメーカーやプリンタメーカー、用紙メーカーなど写真関連産業のユーザーに対する影響力だろう。カメラ雑誌やこれらの産業が実施する写真賞、コンクール、それぞれのメーカーギャラリーが果たす影響力が非常に大きいため、相対的にこの国にはポートフォリオレビューという仕組みが根付いていないのではないか。アートの美しい写真を撮るということと、カメラにこだわるということとは全く意味が異なる。いいカメラがあってもいいアート写真は撮れない。カメラ産業が仕掛ける販売競争にいつまでも巻き込まれても仕方がないと思うのは僕だけだろうか。そう思いつつ、僕自身、新しい機種が出るのをいつも楽しみに待っている訳だけれどね。僕は写真家ではないが、メカ好きなので写真機の虜になることもある。 話を戻そう。レビューというのは、ある意味で写真表現者にとっては壁であると同時にチャンスであるとも言える。レビューというものはある種の試験のようなもので、通過するか通過しないかで、写真の世界の広がり方が大きく変わっていく。そして、写真産業が自社の経営にフィードバックを得るために手がけるコンクールやコンテストなどと違って、写真家の社会に向いたポジティブなコミュニケーションを促すという点で、より純粋であるのが特徴だ。 さて、ストーリーやテーマ、「アートの装置」という点を前回までのポストで取り上げたが、今回は写真のもつインパクトについて書いてみよう。もちろん前回にも書いたが、このインパクトとは、それぞれ評価の強さを表すもので、ストーリーやアートの装置といった言葉にかかっていることを留意していただきたい。ストーリーのインパクトが強い、弱い、といった表現がなされるわけだ。端的に示すと、写真を見たときに鳥肌が立つような、わあ、なんと美しい写真なのだろう、という衝撃を受けることがある。その衝撃の度合いをインパクトと評することができると思う。 学術論文でも、インパクトポイントという言葉がある。論文の掲載される科学雑誌のレベルによって論文が社会に与える影響をポイントに換算して集積する仕組みがある。例えばScienceやNatureという雑誌は、掲載されること自体も非常に難しいが、自然科学の分野で先導的な役割を果たす論文が掲載されるため、一度掲載されると後々まで引用される可能性が高く、よって社会への影響が大きいと見なされている。このように、写真表現にも基本的にはインパクトという要素があり、「衝撃的な」や「世界で初めての」などの表現でその程度の大きさがわかるような表現がなされる。 たとえば、2009年にイランで実施された大統領選挙で反政権の改革派のデモに参加していた女子学生が何者かに射殺された。その射殺体の写真は、インターネットを駆け巡って欧米を中心に大きく取り上げられた。そのことがきっかけて、政権のアフマディーネジャード大統領、改革派のムーサヴィー氏の双方がそのイメージを利用してキャンペーンを張ったり、西側諸国がイランの内政に非常に強い懸念を表明したりと、イラン国政の権力をめぐる強いストーリーが世界中を席巻し、後に多くのジャーナリストの写真制作に影響した。 イラングリーン革命 こういう一枚で世界を変えてしまうような影響力のある写真が最もインパクトが高く、それらが集まることで影響力を持つメディアが登場している。例えば、NY Times Lens Blogなどは世界各地で起こっている紛争や自然災害、事件などのニュース映像を、プロの報道記者のみならず地元のiPhoneなどのスマートフォンを使ったBlog記者の記事に頼って配信するなど、強いメディアがインパクトのある強いイメージを収集する仕組みを構築しはじめている。 アートの作品のインパクトはどうだろう。ジャーナリスティックな写真のインパクトと同様、アートの作品にもインパクトは存在する。たとえば、ナン・ゴールディンのセックスホリック、暴力、ドラッグを身近なところで描いた"The Ballad of Sexual Dependency"などは社会に非常に大きなインパクトを与えた写真集だ。これがアートかどうか、という切り口での議論はさんざんなされているだろうが、少なくとも自己の心象と表現、そして社会との接続という観点からすればこの作品群は明確にアートだと言える。そしてその衝撃はその後の写真にとても大きな影響を与えている。 インパクトという物差しは、可変領域だ。ダイアン・アーバスの時代とグルスキーの時代とでは、その時代の根底にある政治や思想が異なる。よって写真という芸術でさえそれらの影響を受けてしまう。作品を制作するときに、その影響力を予想することは非常に大切だ。写真家を目指すのであれば、インパクトがないものを平坦に作っても誰も見てはくれない。もしテーマが明確にあるのであれば、そのテーマが社会の誰にとって最も影響力があるかを考えておく必要がある。そして、作品を発表するときに、その作品がどの程度のインパクトをもちうるかを知っている必要がある。歴史には数多くのサンプルとなる写真の集合体があって、それぞれの先人たちのプロジェクトがある種ピラミッドを構成し階層を作っていると考えてみるといい。最も影響力のある、最も価値があるとされる作品は、おそらくほとんど誰も異論を挟むことなく頂上に君臨している訳だ。そのピラミッドのどこか、中腹より上、尖ったエッジの部分を目指すんだ、というようなインパクトを予測してその上を目指したい。自分がアートの系譜のどのスロットを目指すのか自己計算できないと国際レビューをわたって社会から認められていくことは難しいと言えるだろう。 誰も見たことがないテーマの作品、美しく尖っていて切れ味のある写真。安定していてぶれのない写真。社会の暗部や輝きを表出する写真など、社会に何らかの影響、インパクトを与える写真を作ることを意識していた方が、何も意識せず歴史のピラミッドを見ることもなくただ闇雲に制作するよりはずっといいものを作れるはずだ。自分の作品のインパクトを自分自身で理解すること。これもレビューを受ける一つの勇気につながるはずだ。 [...]

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