Monthly Archives: 6月 2013

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レビューを受ける5

By |2013-06-29T10:46:17+09:006月 29th, 2013|Portfolio Review, Story|

6月にReview Santa Feに参加して、その写真のレベルの高さに衝撃を受けたことはFacebookあたりでも書いた。僕は一昨年に一度取材でReview Santa Feを訪れており、そこから多くの写真家を日本で紹介したこと、ART in HOSPITALなどの社会アートプログラムを実施してそれが複数の写真家を通じてReview Santa Feの実行組織に紹介されたことなどが評価されて、今年のReview Santa Feではレビュワーとして招かれた。2日間で27名の写真家のポートフォリオレビューを実施するという非常にタフなレビューだったが、帰国して参加写真家のイメージを振り返るとそのレベルの高さに改めて驚かされる。ざっと見積もっても延べ18名の写真家に異なる3つのテーマでのグループ展、3つの個展が開催できそうで、となると1年中Review Santa Feから誘った写真家のプログラムが開催できる計算になり、それぞれがとても面白いプログラムになるだろう。既に構成を考えている一つのグループ展が、女性の写真家を取り上げたグループ展だ。アメリカやカナダ、ロシアから合計14名の女性の写真をレビューしたが、そのうちのなんと6名がパーソナルな素材、身近な社会のストーリーを提示していた。面白いのは、これらの写真家が写真イメージの強さとセレクションで勝負をしており、しかも家族をめぐるストレスを丁寧に描いたり、アートの装置を取り入れてしっかりと美的に描こうとしていることだ。日本で見かけるパーソナルな写真をみると、写真があちらこちらを向いていたり、どうしてその写真が含まれているのか意味の分からない、説明が必要なイメージが混ざることが多いが、Review Santa Feで見たものはタイトルやテーマと相まって、ストーリーの描き手と受け手の間にイメージを置いて、十分コミュニケーションがとれるものになっていた。そう、ポートフォリオレビューの最大の武器といえるものは、このコミュニケーションなのだ。 今日はこのコミュニケーションについて書いてみよう。 写真がメディア、またはビジュアルランゲージであるということに異論を挟むものはいないだろう。写真は、そのイメージにある種のメッセージを載せることができるからこそ、広告や宣伝、アートなどに広く使われている。写真は、イメージとして単純に理解されるものと考えられがちだが、多くの場合それは言語化され、視覚から言葉に変換されて理解されることがある。例えば、富士山を撮影した夕刻の写真があるとすると、そのイメージを見た瞬間に「富士山」「夕方」という言葉が生成されるので、僕たちはそのことから写真の認識をすすめることができるのである。ドキュメンタリーの写真の場合、例えばバングラデシュの水上生活を送る人々を撮影したシリーズがあるとすると、多くの人はそれが水上生活を送っている人々だと言語化して理解するだろう。ところが、イメージが弱いとそれがどこの国のどういう状況なのかなど、やはり言葉で補ってやる必要がでてくる。なぜなら、言語化と言っても、それがバングラデシュの水上生活であると理解するには、報道なり何らかの方法で知識としてその状況を知っている必要があるからだ。ところが、仮にそれがどこの国かは知らなくても、そういう暮らしをしている光景そのものが強く美しければ、理屈を越えてひとの心に届くものだ。ひとの心にとどきあるいは人の心をこじ開け、世界には大変な暮らしがあるものだ、と納得させるあるいはひとの心に染み渡る力があるとすれば、それこそがアートだし、その作用をもたらすものがコミュニケーションだと僕は考えている。 先のポストにも書いた音楽の陶酔。これもまさに音楽を通じて演奏家と聴衆がコミュニケーションをとることによって立ち上がる。とすると、写真のコミュニケーションとは何なのだろう。僕は、やはりこの部分は写真家の、社会におけるどういった立場から誰に対して何を訴えたいのか、どうしてそのテーマを選んだのか、そのストーリーをなぜ今語ろうとするのか、社会に届けるためにどれほど周到にイメージを作成しているのか、そいういうものが紡がれた結果としてコミュニケーションが立ち上がってくるのだと思っている。そしてそれはわかりやすい方がよく、美的である方がよく、タイムリーである方がいい。 これも私見になるが、一例を挙げよう。セバスティアン・サルガドのアフリカの貧困、紛争、飢餓を扱う彼の写真は、2009年に都立写真美術館でも紹介されておおきな反響があったと思う。イメージは美しく、アフリカの大地を覆う苦悩を表出しながら、どこまでも強く美しいものだった。しかし、中には、凄惨なイメージとして死を想起させるものもあり、美的なものと死との対照に嫌悪を訴える人たちがいたのも確かだ。貧困や死に対して美的に撮影するそれらの作品や制作姿勢に対して批判的な意見があったのだ。それがドキュメンタリーなのかアートなのかというお決まりの二元論におとしいれて批評する人が現れたり、それらの作品が売買されたりコレクションされたりすることを露骨に批判する人もいた。しかし、もしサルガドのイメージが僕が撮る写真のように凡庸なら、いったい誰にアフリカのメッセージが届いただろう。弱いイメージは誰にも見向きもされず、貧困や紛争や飢餓にさえ世界の視点は届かなかっただろう。多くの海外メディアがアフリカ報道のドキュメンタリー番組を資金を駆使して制作する一方で、サルガドのようなアートの装置をもった写真家が美しい大地を人々とともに歩き、生活をともにして写真を撮る。どちらかが優れている、どちらかが劣っている、そんな二元論に意味はないだろう。 サルガドの写真は、観衆の心に侵入する糸口をもっている。それは日頃そういった話題に無関心な観衆であったにしても、その作品を前にするとその前を立ち去れなくする魔力のようなものだ。さらに、彼の作品はその作品のモチーフについて深く考えるように仕向ける。そして、作品の前を立ち去ったあとに、それを見る前と後とではまるで違った世界の見え方を観衆に提示する。それによって、観衆は自分が得た新しい知識を動員してその後の行動を規定することができるようになる。 つまり、以下のようなことを成り立たせるのが、写真を通じたコミュニケーションなのだ。 initiation - [...]

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レビューを受ける4

By |2013-06-28T23:27:17+09:006月 28th, 2013|Portfolio Review, Story|

ポートフォリオレビューの実際について、これまで3回のポストを書いた。それぞれがある種総論的で、少し主観的な要素もあったと思うが、写真の評価という点でギャラリーやレビュワーがどういう点で写真を見ているのか、という部分はある程度参考になるのではないだろうか。もちろん、ギャラリーやレビュワー、枠組みやコンペなどすべてが同じようにはいかない。前にも書いたけれど、写真の評価の総和はあまりぶれない。つまり、いい写真だと評価される写真家は、ほとんどのレビュワーがだいたいにおいていい評価をしている。かといって個々のレビュワーがぶれない訳ではない。しかし、もっとも大事なことは、決してレビューそのものを作品制作の目的にしないことだろう。レビューはあくまでもレビュー。大切なのはレビュワーに認めてもらうことではなく、その背後にあるマーケットや社会に出て行くことであり、それはつまり制作した写真が社会につながるよう考え続けている必要がある、ということだ。 ここで少し音楽の話を書いてみたい。かなり前になるが、大阪のフェスティバルホールで大好きなボサノヴァの大御所ジョアン・ジルベルトのコンサートを聴いた。非常に高齢で来日できるのかも心配だったが、結果としてとても素晴らしいコンサートだった。僕の大好きなイパネマの娘から始まって美しい旋律のコルコバド、そしてデサフィナードなど、有名なナンバーをギター一本で弾き歌うのだ。僕はボサノヴァのリズムとジョアンのささやくような声に酔いしれた。 こういうコンサートのときにとても感心することがある。音楽の場合、プロのアーティストたちはどうして一度もミスタッチをしないで演奏を終えることができるのか、とても不思議なのだ。僕自身もボサノヴァギターを弾き、歌も原語で歌うが、とてもとてもミスタッチなしでは弾き通せない。ここにアマチュアとプロフェッショナルの大きな違いがある訳だ。ジョアンはその道60年以上とも言えるプロフェッショナル。観衆から高額なチケット代をとる訳だから、ある意味においてミスタッチなどは許されない。そう考えると、プロフェッショナルというものがいかに素養をもち鍛錬を積んで高いレベルの仕事をしているのかがよくわかる。そしてそういったプロフェッショナルになれる確率、興行収入やレコードの売り上げで生計を立てることのできる音楽家の割合は、おそらく音楽人口の0.01%に満たないだろう。 写真の場合はどうだろう。写真の場合、特別なのは、ギターを演奏する、という行為に相当する撮影の部分でカメラの存在があることだ。この「ミスタッチ」という技術的な問題について、カメラという技術がミスタッチをかなりな部分カバーし、もはや誰もが適正でピントのあった写真を撮ることができるようになったという点が、自動演奏のできないギターの演奏とはことなっている。その昔、まだ露出計とカメラが分離されていたような頃、写真家の多くは経験的なさじ加減で露出を決めていただろう。カメラも高額で、誰もが手に入れることができる今とは違って、写真家になるというのには相当高いハードルがあったに違いない。現在の写真は、技術で補われた道具を使って、ほぼ自分の思い通りのイメージを手に入れることができる時代なのだ。そう理解すると、写真をめぐる制作環境がいかに恵まれているかがわかる。だからこそ、撮影技術や出力の美しさといった基本的な技術の部分の緻密なコントロールはもはや当たり前、その撮影の背景にあるストーリーやテーマが特別に重視されるようになってきているのだ。逆に技術なんて放り出して、ストーリー勝負でiPhoneなどで作品を制作することだってできる。そのストーリーがタイムリーであれば、NY Timesなどの記事に採用されることだってある。とすると、写真におけるミスタッチとは何だろう。僕がレビューで感じるのは、誰かに似せたストーリー、観衆を意識しない一人よがりな作品。タイミングのほころび、脆弱なモチーフ、妥協した構成など。不勉強、美しくない、素養の足りなさというのもある。どこかで賞を取った、というのもなにかミスタッチなことがある。 現在の写真人口をどのように計測しうるのかはわからない。しかし、写真を楽しんで何らかの形で写真を発表したり写真をかなり高いレベルで指向する人たち、プロと言われている写真家の総和の中で、本当に写真のみを生業としている人たちがどれほどいるのか、大変興味深い。本来、この数字は音楽のそれとそれほど違いがないはずだ。写真の世界も、実は相当に厳しい競争世界であるはずで、しかもその裾野は大きくなる一方だ。「ミスタッチ」を許容すると世界が逃げていく。ミスタッチを切り離す努力をして初めて、世界の入り口に立てるような気がする。まあ、ここまで書くと辛口すぎるけれどね。でも、国内外で活躍しているトップクラスの人たちの作品をみてみると、まずその辺りは安心してみていられるはずだ。これが写真の評価の総和であるし、ミスタッチのなさなのだと思う。  

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写真コミュニケーションワークショップ

By |2013-06-26T11:21:23+09:006月 26th, 2013|Organization, RAIEC, Workshop|

表題のワークショップを7月13日14日の2日間、神戸のtheory of clouds gallery &communication worldwideにて開催します。 このワークショップは、Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVALのプレ・ワークショップとして開催するもので、写真家、写真家を目指す方々や写真の評論、研究、ギャラリー開設など、写真の担い手になろうと考えている方にご参加いただけるコミュニケーションを主体としたワークショップです。また、Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVALの運営スタッフになることを希望される方、レビュワーやポートフォリオレビューに参加していただく方向けにも、大変有意義なワークショップとなると思います。 ワークショップの内容は、写真というメディアを使い、写真表現からたちあがる豊かなメッセージをコミュニケーションを通じて読み取ります。さらに、それらをテキスト化し、キーワードから作者のストーリーを再構築するトレーニングを行います。また、写真家渡邉博史さんの作品づくりについての戦略的な考察や、キュレーターでRAIECのコミッティーメンバーである太田菜穂子さんの海外プログラムの企画運営についてもお話しいただき、全体として写真コミュニケーションの基本的な能力を開発します。   講師 渡邉博史(写真家) 太田菜穂子(キュレーター) 杉山武毅(ギャラリーディレクター・Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVAL総合ディレクター) 菅武志(英語シニアアシスタント)その他 2013年7月13日(土)14日(日) スケジュール [...]

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レビューを受ける3

By |2013-06-25T16:38:07+09:006月 25th, 2013|Portfolio Review, Story|

PHOTO TAIPEI 2012 写真を制作する上で皆さんはどんな戦略をもっているのだろう。 こういうテーマで話しだすと少し脇道にそれるような感じもあるのだけれど、少なくともただ楽しんで写真を撮っている大多数の写真愛好家と、写真のレベルを少しでも上げていきたいと願っている表現者指向の人々と、写真で生計を立てるくらいに写真にかけている人と、写真に関わっている人たちは本当にたくさんいらっしゃるというのが国内の状況かと思う。なので、それぞれのセクションの人たちでも、特に写真のクラスをあげたいと思っている人たち、プロフェッショナル写真家として写真にかけていく気持ちの強い人たちにとってレビューを受けるということは本来的にどういう意味があるのかを考えてみたい。むしろそういうポピュレーションにとって、写真で生きていこうとするならある種のレビューは必須といえる。ギャラリーへの持ち込みしかり、写真集出版社への持ち込みもしかり。しかし、特に、この国には世界でも珍しいカメラメーカーがひしめき合い写真産業というものがものすごい勢いでカメラを生産し続けて、キャンペーンをはり、恐ろしいほどの研究開発費を使って新機種を開発し、ユーザーをつかまえようと躍起になっている。ユーザーはと言えば、やはり新機種にはめっぽう弱く、僕も含めてだけれど、新製品がでるとそこに群がっていくという構造もある訳だ。日本人は本当にカメラが好きなんだと思う。日本の写真の構造が海外と比べて特殊な部分は、このカメラメーカーやプリンタメーカー、用紙メーカーなど写真関連産業のユーザーに対する影響力だろう。カメラ雑誌やこれらの産業が実施する写真賞、コンクール、それぞれのメーカーギャラリーが果たす影響力が非常に大きいため、相対的にこの国にはポートフォリオレビューという仕組みが根付いていないのではないか。アートの美しい写真を撮るということと、カメラにこだわるということとは全く意味が異なる。いいカメラがあってもいいアート写真は撮れない。カメラ産業が仕掛ける販売競争にいつまでも巻き込まれても仕方がないと思うのは僕だけだろうか。そう思いつつ、僕自身、新しい機種が出るのをいつも楽しみに待っている訳だけれどね。僕は写真家ではないが、メカ好きなので写真機の虜になることもある。 話を戻そう。レビューというのは、ある意味で写真表現者にとっては壁であると同時にチャンスであるとも言える。レビューというものはある種の試験のようなもので、通過するか通過しないかで、写真の世界の広がり方が大きく変わっていく。そして、写真産業が自社の経営にフィードバックを得るために手がけるコンクールやコンテストなどと違って、写真家の社会に向いたポジティブなコミュニケーションを促すという点で、より純粋であるのが特徴だ。 さて、ストーリーやテーマ、「アートの装置」という点を前回までのポストで取り上げたが、今回は写真のもつインパクトについて書いてみよう。もちろん前回にも書いたが、このインパクトとは、それぞれ評価の強さを表すもので、ストーリーやアートの装置といった言葉にかかっていることを留意していただきたい。ストーリーのインパクトが強い、弱い、といった表現がなされるわけだ。端的に示すと、写真を見たときに鳥肌が立つような、わあ、なんと美しい写真なのだろう、という衝撃を受けることがある。その衝撃の度合いをインパクトと評することができると思う。 学術論文でも、インパクトポイントという言葉がある。論文の掲載される科学雑誌のレベルによって論文が社会に与える影響をポイントに換算して集積する仕組みがある。例えばScienceやNatureという雑誌は、掲載されること自体も非常に難しいが、自然科学の分野で先導的な役割を果たす論文が掲載されるため、一度掲載されると後々まで引用される可能性が高く、よって社会への影響が大きいと見なされている。このように、写真表現にも基本的にはインパクトという要素があり、「衝撃的な」や「世界で初めての」などの表現でその程度の大きさがわかるような表現がなされる。 たとえば、2009年にイランで実施された大統領選挙で反政権の改革派のデモに参加していた女子学生が何者かに射殺された。その射殺体の写真は、インターネットを駆け巡って欧米を中心に大きく取り上げられた。そのことがきっかけて、政権のアフマディーネジャード大統領、改革派のムーサヴィー氏の双方がそのイメージを利用してキャンペーンを張ったり、西側諸国がイランの内政に非常に強い懸念を表明したりと、イラン国政の権力をめぐる強いストーリーが世界中を席巻し、後に多くのジャーナリストの写真制作に影響した。 イラングリーン革命 こういう一枚で世界を変えてしまうような影響力のある写真が最もインパクトが高く、それらが集まることで影響力を持つメディアが登場している。例えば、NY Times Lens Blogなどは世界各地で起こっている紛争や自然災害、事件などのニュース映像を、プロの報道記者のみならず地元のiPhoneなどのスマートフォンを使ったBlog記者の記事に頼って配信するなど、強いメディアがインパクトのある強いイメージを収集する仕組みを構築しはじめている。 アートの作品のインパクトはどうだろう。ジャーナリスティックな写真のインパクトと同様、アートの作品にもインパクトは存在する。たとえば、ナン・ゴールディンのセックスホリック、暴力、ドラッグを身近なところで描いた"The Ballad of Sexual Dependency"などは社会に非常に大きなインパクトを与えた写真集だ。これがアートかどうか、という切り口での議論はさんざんなされているだろうが、少なくとも自己の心象と表現、そして社会との接続という観点からすればこの作品群は明確にアートだと言える。そしてその衝撃はその後の写真にとても大きな影響を与えている。 インパクトという物差しは、可変領域だ。ダイアン・アーバスの時代とグルスキーの時代とでは、その時代の根底にある政治や思想が異なる。よって写真という芸術でさえそれらの影響を受けてしまう。作品を制作するときに、その影響力を予想することは非常に大切だ。写真家を目指すのであれば、インパクトがないものを平坦に作っても誰も見てはくれない。もしテーマが明確にあるのであれば、そのテーマが社会の誰にとって最も影響力があるかを考えておく必要がある。そして、作品を発表するときに、その作品がどの程度のインパクトをもちうるかを知っている必要がある。歴史には数多くのサンプルとなる写真の集合体があって、それぞれの先人たちのプロジェクトがある種ピラミッドを構成し階層を作っていると考えてみるといい。最も影響力のある、最も価値があるとされる作品は、おそらくほとんど誰も異論を挟むことなく頂上に君臨している訳だ。そのピラミッドのどこか、中腹より上、尖ったエッジの部分を目指すんだ、というようなインパクトを予測してその上を目指したい。自分がアートの系譜のどのスロットを目指すのか自己計算できないと国際レビューをわたって社会から認められていくことは難しいと言えるだろう。 誰も見たことがないテーマの作品、美しく尖っていて切れ味のある写真。安定していてぶれのない写真。社会の暗部や輝きを表出する写真など、社会に何らかの影響、インパクトを与える写真を作ることを意識していた方が、何も意識せず歴史のピラミッドを見ることもなくただ闇雲に制作するよりはずっといいものを作れるはずだ。自分の作品のインパクトを自分自身で理解すること。これもレビューを受ける一つの勇気につながるはずだ。 [...]

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レビューを受ける2

By |2013-06-24T16:20:35+09:006月 24th, 2013|Portfolio Review|

(C)Gilbert Garcin この作家ってアートの装置が明快ですよね。Gallery TANTO TEMPOで現在開催中のGilbert Garcinさんの写真です。 僕はこういう風に「アートの装置」という言葉を使います。学術的な用語ではありません。   先に前回のポストから、アートの装置って何?という質問があったので、まずここから回答していこうと思う。 そもそもアートとは何か?こういう風に書くと切り口が壮大でとりとめもなくなってしまう。なので、アートとはなにか、ということを説明するのに僕がよく使っている説明法を書いておこうと思う。 アートについて説明するのに、僕はたびたびアンドレアス・グルスキーの作品集を僕のレビューを受けにくる写真家に提示する。それによって「アートの装置」を示して、これが結果的にいわゆるファインアートの写真というものなのだ、と示すようにしている。これは、この方法がわかりやすく合理的にアートとは何かを解説するいい方法だと考えているからで、僕自身はこの本をとても多用しているといっていい。なぜなら、グルスキーの写真は、何をもってファインアートの写真と言わしめるのか、非常に明快に示しているからだ。そして、作品の解説を見るまでもなく、多くの方はアートや写真の知識があるかないかに関わらず、どうしてこれらの写真が面白く優れているか直感的に理解すると思う。この明示されている作品のコンセプトの中で、その作品を面白く、優れていると感じさせ理解させる何か、モチーフでもテーマでも撮影技法でもいい、何か一つその作品シリーズに宿る仕掛けのことを僕は「アートの装置」と呼んでおり、その装置のわかりやすさ、強さ、再現性などを評して作品を読み解こうとするのである。人によってはそれらをStyleと言うこともあるし、単にExpressionとまとめて言うこともあるようだ。いわゆる現代アート作品にはこの装置は必要だし、ドキュメンタリーなどの作品でもこの装置は必要と言える。なぜなら、仮にドキュメンタリーの作品という括りがあるとしても、その作品が人々の心にとどき、社会に何らかの影響を与えるためには、この装置が大きな役割を果たすからだ。アートの装置とは、写真家の心象と表現、観衆(社会)との接続を果たすものでなくてはならないと言える。もっと簡単に言えば、この写真なにがおもろいねん?というその理由が説明できるのであればそれでいいわけだ。 一方で、アートの装置がすぐに見えない写真もある。見えないからといって作品が悪いということではない。アートの装置は、普段の生活の苦悩や幸福、パーソナルな作品には備わりにくい。あえてそういう装置を隠してしまう場合もあるだろう。それはグルスキーのように「特別な何か」ではないし、必ずしも美的でも、わかりやすくもないからだ。なので、レビュワーはその部分を20点あまりの作品の中から読み取る努力を迫られるのだ。しかし、それらは突如見えてくることがある、キーパーソンなり、家の中のごたごたなり、光や色調の加減だったり、そういう部分をたどって作品の根幹を探りにいくのである。ノスタルジー、インティマシー、やるせなさ、暴力、セックスいろいろなものが垣間見えてくると、作品は突如として輝きだすこともある。 (追記)アートの装置がなかったら?アートの装置がない写真は、それはそれは本当にたくさんあると思います。そしてやはり、それらはアートとしての価値を有さないもの、何でもないただの写真、という他ありません。一般的な風景写真とグルスキーの史上最高価格で競り落とされたRhein IIとの違いは?これにも一応説明は可能ですが改めて書きましょう。(追記ここまで) アートの装置のわかりやすさ、強さ、再現性などを評して作品を読み解こうとする。もしこれがレビューだとすると、やはりアートは美しさと強さを併せ持ちながら、一定の再現性あるストーリーを提示しているほうがわかりやすく面白いだろう。アートを観覧者にゆだねて読み取らせる作品群よりも、誰が見ても読み取れる作品が高評価をとるのは、こういう理由だ。レビュワーはそれを読むプロフェッショナルだからいいが、一般の観衆には理解できないでフラストレーションを与えることもあるだろう。なぜなら、前のポストでも書いたが、レビュワーの背景には一般の人々、非専門家たちがたくさんいて、レビュワーの選択する作品を楽しみにして待っているのだから。  

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レビューを受ける1

By |2013-06-24T10:24:20+09:006月 24th, 2013|Portfolio Review|

portfolio reviewという言葉、ポートフォリオレビューを受けるということにはどういう意味があるんだろう。ここでは、portfolio reviewの現実についてすこしシリーズで紹介しようと思う。 そもそもレビューとは、評論と訳される言葉だ。一般的には作品や論文について評価を受けて、それらが評に価するかどうか、価値があるとすればどのような価値のものとして取り扱っていくか、専門家が論じることをいう。評論の専門家とは、その分野の価値体系をもとにそれらの作品がどのような価値があるのかを判断するプロフェッショナルだ。例えば、医学論文だと、循環器科の領域の論文については循環器科の専門家がレビューし、その作者に学会誌などへの掲載ができるかどうか、できないとすればどういう理由でできないか、補って掲載が可能なものであればどういう点で書き直すべきか、適切なポイントを指摘していくものだ。では、写真における専門家とは誰だろう。一般的に、写真における専門家とは、指導的な立場にある写真家、写真についての深い知識がある学者/研究者、写真を専門とする学芸員、写真の評論家、写真を扱うギャラリー、写真集出版社、写真専門雑誌などだろう。これらは写真家あるいは作品を評価しその評価内容を論じたり、作品を社会に流していくこと、写真家と協業して写真から利益を上げたりすることに責任を負っているので、プロフェッショナルな担い手であるということができる。そしてこの担い手たちの背後には、かならず社会としての視点、コレクターや写真集愛好家などエンドユーザーが存在することを理解しておく必要がある。 では、レビューとは写真の場合どのように行われているのだろう。ここが理解できればレビューはさほど難しいことではないはずだ。美しい作品を作ることはいろいろ大変だが、レビュー自体は作品を作るほどには難しくはない。もちろん、レビューを通過して自分の作品が社会に流れていく、というところにはもっとも険しい道のりがあるのだが。 レビュワーによって評価軸がいろいろ異なることは、人間が行う分類作業だからやむを得ない。しかし、一般的に評価の基準には以下のようなものがある。 まず、もっとも大事なのはストーリーやテーマだろう。写真家としてどのような物語を誰に対して提示し、その結果をどのように見込んでいるか、この一連の思考がストーリーであり、テーマだ。多くの写真家はテーマを探してくることには熱心だが、それを誰に見せたいのか、どのような社会的評価、結果を見込んでいるのか、という部分が欠落していることが多い。この部分は、基本的には写真の評価の中で最も影響を受ける部分だ。たとえば、ある国の貧困をテーマに選ぶとする。貧困に喘ぐ人たちを撮影することは、撮影の拠点をその国に置き、ある程度その土地に根ざした活動をしていればかなうだろう。問題は、それをどこで、誰に見せるのか、という目的を自覚的に描いているかどうかだ。もっとも重要なのは、写真の制作過程にそれらの目的と、結果として描き得る評価が予測されていることだ。それが例えば、世界的なメディアであるNY Timesなどのニュースメディアに向かっているのか、ある種の評価を一般の観衆に問いかけるギャラリーでの展覧会をめざすのか、写真集好きのポピュレーションに届けたいのか。それぞれの方向性によって制作の方法がまるで異なってくるといっていい。貧困をテーマにした写真の場合、それがその国の現状を世界に知らしめることができ、そこから国際的な議論が起こるという評価を期待して作品を制作すれば、もっとも高い評価が得られる可能性が高くなる。また、その国への滞在記としてジャーナリスティックな視点で制作を続けていけば、世界的な議論は期待しなくともその国に関心のある人々に届くだろう。僕がよく見かける写真制作上の問題点は、その方向について考えが少し足りないか、万能を目指しすぎていることだ。また、先の例にたてば、他にも多数いる同じ国、貧困を扱う写真家と同じ視点で作品を作っていても浮かび上がることはない、ということを知っている必要がある。そのテーマを選ぶのであれば、より新しくより困難でより美しい方法を目指すしかない。 それがアートを目指しているものであっても、ことの理由は同じだ。アートの場合は、より美しいより新しいものを探しているコレクターを最終目標に掲げて訴えていく必要がある。アートの写真を語るときに、僕はよく「このシリーズのアートの装置は何ですか?」と問いかける。日本では、多くの人はその装置を語ることができない。しかし、欧米の写真家の場合、ほとんどの場合この装置は明示的で問いかけるまでもない。 僕がストーリーで評価するポイントは、以下の通りだ。 新しい視点で社会を見つめているか 社会の出来事、あるいは視覚的なモチーフを有効に使用して作品を高めているか メッセージや目的を有しているか 美しいか 制作が実験的でなく再現性があるか インパクトがあるか   次はインパクトについて書いてみよう。

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海外フォトフェスの力量2

By |2013-06-22T19:56:40+09:006月 22nd, 2013|Organization, Story|

Singapore2012 アジアでも新しい写真祭が次々と立ち上がっている。シンガポール国際写真祭もその中の一つだ。こちらはビエンナーレで開催される写真祭で、現在までに3回開催されるに至っている。構想から運営まで、本当に若いスタッフが実施しているのが驚きだった。 実は、主催者の女性とは2010年のパリでお目にかかった。彼女はその年の11月にパリで開催されたPhoto OffというPARIS PHOTOからすればセカンドラインのギャラリーやプロジェクトが軒を連ねる写真イベントの出展者だったのだが、シンガポールの国際写真祭のことをしきりに話していたので、強く記憶に残っていた。その後FBなどで連絡を取り合い、Gallery TANTO TEMPOの関わりの写真家がシンガポール国際写真祭に出展することを機に、シンガポールにレビュワーとして招待してくれたのだ。 昨年9月にこの写真祭のレビュワーとして参加するために2泊3日という強行日程で訪れてきた。僕が手がけているART in HOSPITALという社会芸術プログラムのアジアの状況を研究する目的も兼ねての訪問だったから、実際にレビューに参加できたのは1日だけだった。ART in HOSPITALの取材は、現地の最大級の病院Singapore General Hospitalという病院に訪問し、アートマネージメントを専門にするスタッフに病院内を案内してもらうというものだったのだが、病院の中から外の庭に至るまで、あらゆる美的要素が日本に比べて優れているシンガポールに強い印象を持った。 レビュー会場に着いてみると、9名の写真家がぎっしりとリストに並んでいて、非常に面白い写真家が参加していた。ほとんどの写真家はポートレイトを主に制作しており、写真における世界の状況を良く学習していた。シンガポールから3名、イギリスから1名、マレーシア2名、スペイン1名と、国籍も程よくばらけているのが好印象だった。全員が英語が堪能。コミュニケーションはすべての方が高い能力を有していた。質問には丁寧に返し、そういう見方があることがわかってよかった、などと受容的な対応がとれる方ばかりだった。写真のレベルも高く、何よりストーリーがあった。2013年に神戸の新しいギャラリーtheory of cloudsで開催した写真グループ展には、彼らのうちの5名を誘って非常に面白いポートレイトのプログラムを開催することができた。参加した写真家の一人、Sean Leeさんは、モノクロのポートレイトを見せてくれた。イメージは強く、父親と母親をモデルにしているものだった。ある日、父と母が以前ほど仲良くしていないと感じたSeanさんは、父親と母親が何らかの肉体的接触をすることを求めながら撮影するシリーズを思いつき、撮影していったという。二人は最初は照れながらもSeanのカメラの前にたっていたが、撮り進めるうちに自然な表情、くつろいだ表情で作業を楽しむようになったという。写真にも夫婦の打ち解けた「接触」を見せるものが出現し、非常に清々しく美しいポートレイトだった。「撮影」という行為が人間関係に良い影響を与える一つのサンプルとしてみれば、これも表現として評価に値する、というのが僕自身の評価だった。シンガポールは、アートもドキュメンタリーもバランスよく写真家、レビュワーを集めていた。 わずか第3回ではあったが、シンガポール国際写真祭は会場に国立アートミュージアムなどを駆使して、国家のバックアップも整えつつある。日本にも写真賞や写真祭で地方自治体と連携するイベントはあるが、国家予算に訴えていくものはまだ聞かない。それは、やはり国立写真大学や国立写真美術館というような国と社会、社会と写真とを結びつける適正な三角形がないからだし、写真に関わるいろいろな人たちが枠組みや利害をこえて連携しないからだ。アルルやサンタフェ、他の世界的な枠組みが国家のレベルで認証されていることには僕たちも自覚的である必要がある。まさに、社会における写真の認知、マーケットのあり方のすべてにわたる問題点として、やはり日本の国内の写真界はまだ十分な責任を果たしているとはいえないのだ。そして、この「写真界」ということも再定義が必要だろう。写真とはだれのものか。そして写真は社会のどこに向き社会に実りをもたらすのか。写真のプロフェッショナルを問いなおす必要がある。     [...]

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海外フォトフェスの力量

By |2013-06-22T00:28:25+09:006月 22nd, 2013|Organization, RAIEC, Story|

Angkor Photo Festival 2012 海外のフォトフェスに多くの日本人写真家が挑戦している。 最近になって多くなってきた、という向きもあるだろうが、実際に数えている訳ではないので正確な数字はわからない。また、彼らが海外でどのような評価を受けているか、という点もすべてが聞こえてくる訳ではない。その点を断った上で書いてみる。 昨年アンコールフォトフェスに参加した際、少なくともメインのスライドショーイベントに3名の日本人写真家の名前があった。実際にそのうちの2名とは言葉を交わしたから、彼らがどういう思いで参加しているかはおおよそ聞いている。実際に、帰国してからtheory of cloudsギャラリーでその中の一人である木村肇さんをグループ展に誘った。彼の作品は主に北陸、東北、北海道にある熊を狩猟する生活をおくる「またぎ」という人々を追ったシリーズだ。東京のReminders Strongholdで展覧会もやったし、「谺」(窓社)という非常に美しい写真集を出版したところだからご存知の方も多いだろう。その彼の作品がアンコールフォトフェスのスライドショーイベントで上映されたとき、僕はにわかに鳥肌がたった。その理由は、日本の一地方の文化ともいえるものに注目して一連の作品を作った木村さんの制作姿勢への思い、そしてそういう非常にローカルな小さな文化であれ人々に密着した暮らしをとらえた作品に評価を与えた写真祭の力量ともいえるものに対する思いだった思う。その作品が素晴らしいものであるならば、それがたとえ小さな物語であってもそこに光を届けるのが彼らの使命だ、と、彼ら自身が自覚的なのだ。 写真祭は、それぞれに特徴があるのがいい。アンコールフォトフェスは、基本的にドキュメンタリー色が強く、地域密着型の表現が高いポイントを得る。 その理由は、考えてみれば当たり前かもしれない。つまり、世界の中でもかなり不幸な歴史を辿ったカンボジアという国で、フランス人のグループが写真祭を立ち上げたのは8年前。ポルポトが投降して政治的に安定期に向かう前夜の彼らにとって、アートなんてものはさほど必要ではなかっただろうことは容易に想像がつく。彼らにとっての暮らしは、国力を内戦で消耗した結果、つまり世界でも珍しい教育者や指導者のほとんどを虐殺で失ったという国家像の中で、世界との距離をカンボジア国民に見せる必要があったのだろうと思う。おまけに、見渡せば世界は紛争だらけ。カンボジアが急速に近代化の道を歩き始める向こう側では、アメリカとイスラム教徒の戦争が勃発していた、そのさなかにいた訳だ。 僕はどういう訳か、アンコールフォトフェスの歴代参加写真家のポートフォリオをほとんどすべて預かっている。それらは、僕たちがアンコールの地に誘われて日本人写真家のグループ展を構成した見返りに、彼らのもっている大量の優れた写真を日本で紹介せよ、という命でもある。写真家のリストを眺め、彼らのウェブサイトを廻っていくと、そこには世界が見える。それは美しくちっぽけで、か弱く、また力強い人々の肖像でもある。アンコールフォトフェスとは切っても切れない強い絆ができた。アンコールフォトフェスのFrançoise Callier女史はRAIECのコミッティーのメンバーになってもらった。 写真祭の力量。そういうものを世界に発信して、共感を得て、共有できる写真祭にしていこうと思う。

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Accommodation-宿泊

By |2013-06-21T22:09:58+09:006月 21st, 2013|Mt.ROKKO, NEWS, Organization|

Photographer's Lodge We would like to inform you of the accommodation on the top of Mt.ROKKO. There are very small amount [...]

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