(C)Gilbert Garcin

(C)Gilbert Garcin

この作家ってアートの装置が明快ですよね。Gallery TANTO TEMPOで現在開催中のGilbert Garcinさんの写真です。

僕はこういう風に「アートの装置」という言葉を使います。学術的な用語ではありません。

 

先に前回のポストから、アートの装置って何?という質問があったので、まずここから回答していこうと思う。

そもそもアートとは何か?こういう風に書くと切り口が壮大でとりとめもなくなってしまう。なので、アートとはなにか、ということを説明するのに僕がよく使っている説明法を書いておこうと思う。

アートについて説明するのに、僕はたびたびアンドレアス・グルスキーの作品集を僕のレビューを受けにくる写真家に提示する。それによって「アートの装置」を示して、これが結果的にいわゆるファインアートの写真というものなのだ、と示すようにしている。これは、この方法がわかりやすく合理的にアートとは何かを解説するいい方法だと考えているからで、僕自身はこの本をとても多用しているといっていい。なぜなら、グルスキーの写真は、何をもってファインアートの写真と言わしめるのか、非常に明快に示しているからだ。そして、作品の解説を見るまでもなく、多くの方はアートや写真の知識があるかないかに関わらず、どうしてこれらの写真が面白く優れているか直感的に理解すると思う。この明示されている作品のコンセプトの中で、その作品を面白く、優れていると感じさせ理解させる何か、モチーフでもテーマでも撮影技法でもいい、何か一つその作品シリーズに宿る仕掛けのことを僕は「アートの装置」と呼んでおり、その装置のわかりやすさ、強さ、再現性などを評して作品を読み解こうとするのである。人によってはそれらをStyleと言うこともあるし、単にExpressionとまとめて言うこともあるようだ。いわゆる現代アート作品にはこの装置は必要だし、ドキュメンタリーなどの作品でもこの装置は必要と言える。なぜなら、仮にドキュメンタリーの作品という括りがあるとしても、その作品が人々の心にとどき、社会に何らかの影響を与えるためには、この装置が大きな役割を果たすからだ。アートの装置とは、写真家の心象と表現、観衆(社会)との接続を果たすものでなくてはならないと言える。もっと簡単に言えば、この写真なにがおもろいねん?というその理由が説明できるのであればそれでいいわけだ。

一方で、アートの装置がすぐに見えない写真もある。見えないからといって作品が悪いということではない。アートの装置は、普段の生活の苦悩や幸福、パーソナルな作品には備わりにくい。あえてそういう装置を隠してしまう場合もあるだろう。それはグルスキーのように「特別な何か」ではないし、必ずしも美的でも、わかりやすくもないからだ。なので、レビュワーはその部分を20点あまりの作品の中から読み取る努力を迫られるのだ。しかし、それらは突如見えてくることがある、キーパーソンなり、家の中のごたごたなり、光や色調の加減だったり、そういう部分をたどって作品の根幹を探りにいくのである。ノスタルジー、インティマシー、やるせなさ、暴力、セックスいろいろなものが垣間見えてくると、作品は突如として輝きだすこともある。

(追記)アートの装置がなかったら?アートの装置がない写真は、それはそれは本当にたくさんあると思います。そしてやはり、それらはアートとしての価値を有さないもの、何でもないただの写真、という他ありません。一般的な風景写真とグルスキーの史上最高価格で競り落とされたRhein IIとの違いは?これにも一応説明は可能ですが改めて書きましょう。(追記ここまで)

アートの装置のわかりやすさ、強さ、再現性などを評して作品を読み解こうとする。もしこれがレビューだとすると、やはりアートは美しさと強さを併せ持ちながら、一定の再現性あるストーリーを提示しているほうがわかりやすく面白いだろう。アートを観覧者にゆだねて読み取らせる作品群よりも、誰が見ても読み取れる作品が高評価をとるのは、こういう理由だ。レビュワーはそれを読むプロフェッショナルだからいいが、一般の観衆には理解できないでフラストレーションを与えることもあるだろう。なぜなら、前のポストでも書いたが、レビュワーの背景には一般の人々、非専門家たちがたくさんいて、レビュワーの選択する作品を楽しみにして待っているのだから。