PHOTO TAIPEI 2012

PHOTO TAIPEI 2012

写真を制作する上で皆さんはどんな戦略をもっているのだろう。

こういうテーマで話しだすと少し脇道にそれるような感じもあるのだけれど、少なくともただ楽しんで写真を撮っている大多数の写真愛好家と、写真のレベルを少しでも上げていきたいと願っている表現者指向の人々と、写真で生計を立てるくらいに写真にかけている人と、写真に関わっている人たちは本当にたくさんいらっしゃるというのが国内の状況かと思う。なので、それぞれのセクションの人たちでも、特に写真のクラスをあげたいと思っている人たち、プロフェッショナル写真家として写真にかけていく気持ちの強い人たちにとってレビューを受けるということは本来的にどういう意味があるのかを考えてみたい。むしろそういうポピュレーションにとって、写真で生きていこうとするならある種のレビューは必須といえる。ギャラリーへの持ち込みしかり、写真集出版社への持ち込みもしかり。しかし、特に、この国には世界でも珍しいカメラメーカーがひしめき合い写真産業というものがものすごい勢いでカメラを生産し続けて、キャンペーンをはり、恐ろしいほどの研究開発費を使って新機種を開発し、ユーザーをつかまえようと躍起になっている。ユーザーはと言えば、やはり新機種にはめっぽう弱く、僕も含めてだけれど、新製品がでるとそこに群がっていくという構造もある訳だ。日本人は本当にカメラが好きなんだと思う。日本の写真の構造が海外と比べて特殊な部分は、このカメラメーカーやプリンタメーカー、用紙メーカーなど写真関連産業のユーザーに対する影響力だろう。カメラ雑誌やこれらの産業が実施する写真賞、コンクール、それぞれのメーカーギャラリーが果たす影響力が非常に大きいため、相対的にこの国にはポートフォリオレビューという仕組みが根付いていないのではないか。アートの美しい写真を撮るということと、カメラにこだわるということとは全く意味が異なる。いいカメラがあってもいいアート写真は撮れない。カメラ産業が仕掛ける販売競争にいつまでも巻き込まれても仕方がないと思うのは僕だけだろうか。そう思いつつ、僕自身、新しい機種が出るのをいつも楽しみに待っている訳だけれどね。僕は写真家ではないが、メカ好きなので写真機の虜になることもある。

話を戻そう。レビューというのは、ある意味で写真表現者にとっては壁であると同時にチャンスであるとも言える。レビューというものはある種の試験のようなもので、通過するか通過しないかで、写真の世界の広がり方が大きく変わっていく。そして、写真産業が自社の経営にフィードバックを得るために手がけるコンクールやコンテストなどと違って、写真家の社会に向いたポジティブなコミュニケーションを促すという点で、より純粋であるのが特徴だ。

さて、ストーリーやテーマ、「アートの装置」という点を前回までのポストで取り上げたが、今回は写真のもつインパクトについて書いてみよう。もちろん前回にも書いたが、このインパクトとは、それぞれ評価の強さを表すもので、ストーリーやアートの装置といった言葉にかかっていることを留意していただきたい。ストーリーのインパクトが強い、弱い、といった表現がなされるわけだ。端的に示すと、写真を見たときに鳥肌が立つような、わあ、なんと美しい写真なのだろう、という衝撃を受けることがある。その衝撃の度合いをインパクトと評することができると思う。

学術論文でも、インパクトポイントという言葉がある。論文の掲載される科学雑誌のレベルによって論文が社会に与える影響をポイントに換算して集積する仕組みがある。例えばScienceやNatureという雑誌は、掲載されること自体も非常に難しいが、自然科学の分野で先導的な役割を果たす論文が掲載されるため、一度掲載されると後々まで引用される可能性が高く、よって社会への影響が大きいと見なされている。このように、写真表現にも基本的にはインパクトという要素があり、「衝撃的な」や「世界で初めての」などの表現でその程度の大きさがわかるような表現がなされる。

たとえば、2009年にイランで実施された大統領選挙で反政権の改革派のデモに参加していた女子学生が何者かに射殺された。その射殺体の写真は、インターネットを駆け巡って欧米を中心に大きく取り上げられた。そのことがきっかけて、政権のアフマディーネジャード大統領、改革派のムーサヴィー氏の双方がそのイメージを利用してキャンペーンを張ったり、西側諸国がイランの内政に非常に強い懸念を表明したりと、イラン国政の権力をめぐる強いストーリーが世界中を席巻し、後に多くのジャーナリストの写真制作に影響した。

イラングリーン革命

こういう一枚で世界を変えてしまうような影響力のある写真が最もインパクトが高く、それらが集まることで影響力を持つメディアが登場している。例えば、NY Times Lens Blogなどは世界各地で起こっている紛争や自然災害、事件などのニュース映像を、プロの報道記者のみならず地元のiPhoneなどのスマートフォンを使ったBlog記者の記事に頼って配信するなど、強いメディアがインパクトのある強いイメージを収集する仕組みを構築しはじめている。

アートの作品のインパクトはどうだろう。ジャーナリスティックな写真のインパクトと同様、アートの作品にもインパクトは存在する。たとえば、ナン・ゴールディンのセックスホリック、暴力、ドラッグを身近なところで描いた”The Ballad of Sexual Dependency”などは社会に非常に大きなインパクトを与えた写真集だ。これがアートかどうか、という切り口での議論はさんざんなされているだろうが、少なくとも自己の心象と表現、そして社会との接続という観点からすればこの作品群は明確にアートだと言える。そしてその衝撃はその後の写真にとても大きな影響を与えている。

インパクトという物差しは、可変領域だ。ダイアン・アーバスの時代とグルスキーの時代とでは、その時代の根底にある政治や思想が異なる。よって写真という芸術でさえそれらの影響を受けてしまう。作品を制作するときに、その影響力を予想することは非常に大切だ。写真家を目指すのであれば、インパクトがないものを平坦に作っても誰も見てはくれない。もしテーマが明確にあるのであれば、そのテーマが社会の誰にとって最も影響力があるかを考えておく必要がある。そして、作品を発表するときに、その作品がどの程度のインパクトをもちうるかを知っている必要がある。歴史には数多くのサンプルとなる写真の集合体があって、それぞれの先人たちのプロジェクトがある種ピラミッドを構成し階層を作っていると考えてみるといい。最も影響力のある、最も価値があるとされる作品は、おそらくほとんど誰も異論を挟むことなく頂上に君臨している訳だ。そのピラミッドのどこか、中腹より上、尖ったエッジの部分を目指すんだ、というようなインパクトを予測してその上を目指したい。自分がアートの系譜のどのスロットを目指すのか自己計算できないと国際レビューをわたって社会から認められていくことは難しいと言えるだろう。

誰も見たことがないテーマの作品、美しく尖っていて切れ味のある写真。安定していてぶれのない写真。社会の暗部や輝きを表出する写真など、社会に何らかの影響、インパクトを与える写真を作ることを意識していた方が、何も意識せず歴史のピラミッドを見ることもなくただ闇雲に制作するよりはずっといいものを作れるはずだ。自分の作品のインパクトを自分自身で理解すること。これもレビューを受ける一つの勇気につながるはずだ。