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6月にReview Santa Feに参加して、その写真のレベルの高さに衝撃を受けたことはFacebookあたりでも書いた。僕は一昨年に一度取材でReview Santa Feを訪れており、そこから多くの写真家を日本で紹介したこと、ART in HOSPITALなどの社会アートプログラムを実施してそれが複数の写真家を通じてReview Santa Feの実行組織に紹介されたことなどが評価されて、今年のReview Santa Feではレビュワーとして招かれた。2日間で27名の写真家のポートフォリオレビューを実施するという非常にタフなレビューだったが、帰国して参加写真家のイメージを振り返るとそのレベルの高さに改めて驚かされる。ざっと見積もっても延べ18名の写真家に異なる3つのテーマでのグループ展、3つの個展が開催できそうで、となると1年中Review Santa Feから誘った写真家のプログラムが開催できる計算になり、それぞれがとても面白いプログラムになるだろう。既に構成を考えている一つのグループ展が、女性の写真家を取り上げたグループ展だ。アメリカやカナダ、ロシアから合計14名の女性の写真をレビューしたが、そのうちのなんと6名がパーソナルな素材、身近な社会のストーリーを提示していた。面白いのは、これらの写真家が写真イメージの強さとセレクションで勝負をしており、しかも家族をめぐるストレスを丁寧に描いたり、アートの装置を取り入れてしっかりと美的に描こうとしていることだ。日本で見かけるパーソナルな写真をみると、写真があちらこちらを向いていたり、どうしてその写真が含まれているのか意味の分からない、説明が必要なイメージが混ざることが多いが、Review Santa Feで見たものはタイトルやテーマと相まって、ストーリーの描き手と受け手の間にイメージを置いて、十分コミュニケーションがとれるものになっていた。そう、ポートフォリオレビューの最大の武器といえるものは、このコミュニケーションなのだ。

今日はこのコミュニケーションについて書いてみよう。

写真がメディア、またはビジュアルランゲージであるということに異論を挟むものはいないだろう。写真は、そのイメージにある種のメッセージを載せることができるからこそ、広告や宣伝、アートなどに広く使われている。写真は、イメージとして単純に理解されるものと考えられがちだが、多くの場合それは言語化され、視覚から言葉に変換されて理解されることがある。例えば、富士山を撮影した夕刻の写真があるとすると、そのイメージを見た瞬間に「富士山」「夕方」という言葉が生成されるので、僕たちはそのことから写真の認識をすすめることができるのである。ドキュメンタリーの写真の場合、例えばバングラデシュの水上生活を送る人々を撮影したシリーズがあるとすると、多くの人はそれが水上生活を送っている人々だと言語化して理解するだろう。ところが、イメージが弱いとそれがどこの国のどういう状況なのかなど、やはり言葉で補ってやる必要がでてくる。なぜなら、言語化と言っても、それがバングラデシュの水上生活であると理解するには、報道なり何らかの方法で知識としてその状況を知っている必要があるからだ。ところが、仮にそれがどこの国かは知らなくても、そういう暮らしをしている光景そのものが強く美しければ、理屈を越えてひとの心に届くものだ。ひとの心にとどきあるいは人の心をこじ開け、世界には大変な暮らしがあるものだ、と納得させるあるいはひとの心に染み渡る力があるとすれば、それこそがアートだし、その作用をもたらすものがコミュニケーションだと僕は考えている。

先のポストにも書いた音楽の陶酔。これもまさに音楽を通じて演奏家と聴衆がコミュニケーションをとることによって立ち上がる。とすると、写真のコミュニケーションとは何なのだろう。僕は、やはりこの部分は写真家の、社会におけるどういった立場から誰に対して何を訴えたいのか、どうしてそのテーマを選んだのか、そのストーリーをなぜ今語ろうとするのか、社会に届けるためにどれほど周到にイメージを作成しているのか、そいういうものが紡がれた結果としてコミュニケーションが立ち上がってくるのだと思っている。そしてそれはわかりやすい方がよく、美的である方がよく、タイムリーである方がいい。

これも私見になるが、一例を挙げよう。セバスティアン・サルガドのアフリカの貧困、紛争、飢餓を扱う彼の写真は、2009年に都立写真美術館でも紹介されておおきな反響があったと思う。イメージは美しく、アフリカの大地を覆う苦悩を表出しながら、どこまでも強く美しいものだった。しかし、中には、凄惨なイメージとして死を想起させるものもあり、美的なものと死との対照に嫌悪を訴える人たちがいたのも確かだ。貧困や死に対して美的に撮影するそれらの作品や制作姿勢に対して批判的な意見があったのだ。それがドキュメンタリーなのかアートなのかというお決まりの二元論におとしいれて批評する人が現れたり、それらの作品が売買されたりコレクションされたりすることを露骨に批判する人もいた。しかし、もしサルガドのイメージが僕が撮る写真のように凡庸なら、いったい誰にアフリカのメッセージが届いただろう。弱いイメージは誰にも見向きもされず、貧困や紛争や飢餓にさえ世界の視点は届かなかっただろう。多くの海外メディアがアフリカ報道のドキュメンタリー番組を資金を駆使して制作する一方で、サルガドのようなアートの装置をもった写真家が美しい大地を人々とともに歩き、生活をともにして写真を撮る。どちらかが優れている、どちらかが劣っている、そんな二元論に意味はないだろう。

サルガドの写真は、観衆の心に侵入する糸口をもっている。それは日頃そういった話題に無関心な観衆であったにしても、その作品を前にするとその前を立ち去れなくする魔力のようなものだ。さらに、彼の作品はその作品のモチーフについて深く考えるように仕向ける。そして、作品の前を立ち去ったあとに、それを見る前と後とではまるで違った世界の見え方を観衆に提示する。それによって、観衆は自分が得た新しい知識を動員してその後の行動を規定することができるようになる。

つまり、以下のようなことを成り立たせるのが、写真を通じたコミュニケーションなのだ。

initiation – イニシエーション – 糸口

consideration – コンシダレーション – 考察

conclusion – コンクルージョン – 結論

こういうものを作品に組み込んだモチーフから立ち上がらせることは容易いことではない。しかし、常に観衆が自分の作品をどう見るのかを考えておく必要がある。私の写真のこういうテーマにみんな興味をもつだろうか。私はこう考えて作品を作っているけれど、実際にこれを見た人は同じように考えるだろうか、あるいは違う意見をもってディスカッションできるだろうか。私が結論づけたこの美について、みんな作品を欲しいというところまで気に入ってくれるだろうか。

そして、こうしたことはある程度の範囲でトレーニングできることだ。

興味があれば7月13日(土)14日(日)に神戸で開催する写真コミュニケーションワークショップを受講してほしい。ラウンドテーブルでのオープンディスカッション、ロールプレイイングなど、これまでにないコミュニケーションスキルを育む、心と言葉と身体を使ったワークショップとして開催する予定です。

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今日はこのコミュニケーションについて書いてみた。難しいことかもしれないが、一度考えてみてほしい。「レビューを受ける」シリーズはここで一旦終了です。