Yearly Archives: 2013

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レビューを受ける2

By |2013-06-24T16:20:35+09:006月 24th, 2013|Portfolio Review|

(C)Gilbert Garcin この作家ってアートの装置が明快ですよね。Gallery TANTO TEMPOで現在開催中のGilbert Garcinさんの写真です。 僕はこういう風に「アートの装置」という言葉を使います。学術的な用語ではありません。   先に前回のポストから、アートの装置って何?という質問があったので、まずここから回答していこうと思う。 そもそもアートとは何か?こういう風に書くと切り口が壮大でとりとめもなくなってしまう。なので、アートとはなにか、ということを説明するのに僕がよく使っている説明法を書いておこうと思う。 アートについて説明するのに、僕はたびたびアンドレアス・グルスキーの作品集を僕のレビューを受けにくる写真家に提示する。それによって「アートの装置」を示して、これが結果的にいわゆるファインアートの写真というものなのだ、と示すようにしている。これは、この方法がわかりやすく合理的にアートとは何かを解説するいい方法だと考えているからで、僕自身はこの本をとても多用しているといっていい。なぜなら、グルスキーの写真は、何をもってファインアートの写真と言わしめるのか、非常に明快に示しているからだ。そして、作品の解説を見るまでもなく、多くの方はアートや写真の知識があるかないかに関わらず、どうしてこれらの写真が面白く優れているか直感的に理解すると思う。この明示されている作品のコンセプトの中で、その作品を面白く、優れていると感じさせ理解させる何か、モチーフでもテーマでも撮影技法でもいい、何か一つその作品シリーズに宿る仕掛けのことを僕は「アートの装置」と呼んでおり、その装置のわかりやすさ、強さ、再現性などを評して作品を読み解こうとするのである。人によってはそれらをStyleと言うこともあるし、単にExpressionとまとめて言うこともあるようだ。いわゆる現代アート作品にはこの装置は必要だし、ドキュメンタリーなどの作品でもこの装置は必要と言える。なぜなら、仮にドキュメンタリーの作品という括りがあるとしても、その作品が人々の心にとどき、社会に何らかの影響を与えるためには、この装置が大きな役割を果たすからだ。アートの装置とは、写真家の心象と表現、観衆(社会)との接続を果たすものでなくてはならないと言える。もっと簡単に言えば、この写真なにがおもろいねん?というその理由が説明できるのであればそれでいいわけだ。 一方で、アートの装置がすぐに見えない写真もある。見えないからといって作品が悪いということではない。アートの装置は、普段の生活の苦悩や幸福、パーソナルな作品には備わりにくい。あえてそういう装置を隠してしまう場合もあるだろう。それはグルスキーのように「特別な何か」ではないし、必ずしも美的でも、わかりやすくもないからだ。なので、レビュワーはその部分を20点あまりの作品の中から読み取る努力を迫られるのだ。しかし、それらは突如見えてくることがある、キーパーソンなり、家の中のごたごたなり、光や色調の加減だったり、そういう部分をたどって作品の根幹を探りにいくのである。ノスタルジー、インティマシー、やるせなさ、暴力、セックスいろいろなものが垣間見えてくると、作品は突如として輝きだすこともある。 (追記)アートの装置がなかったら?アートの装置がない写真は、それはそれは本当にたくさんあると思います。そしてやはり、それらはアートとしての価値を有さないもの、何でもないただの写真、という他ありません。一般的な風景写真とグルスキーの史上最高価格で競り落とされたRhein IIとの違いは?これにも一応説明は可能ですが改めて書きましょう。(追記ここまで) アートの装置のわかりやすさ、強さ、再現性などを評して作品を読み解こうとする。もしこれがレビューだとすると、やはりアートは美しさと強さを併せ持ちながら、一定の再現性あるストーリーを提示しているほうがわかりやすく面白いだろう。アートを観覧者にゆだねて読み取らせる作品群よりも、誰が見ても読み取れる作品が高評価をとるのは、こういう理由だ。レビュワーはそれを読むプロフェッショナルだからいいが、一般の観衆には理解できないでフラストレーションを与えることもあるだろう。なぜなら、前のポストでも書いたが、レビュワーの背景には一般の人々、非専門家たちがたくさんいて、レビュワーの選択する作品を楽しみにして待っているのだから。  

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レビューを受ける1

By |2013-06-24T10:24:20+09:006月 24th, 2013|Portfolio Review|

portfolio reviewという言葉、ポートフォリオレビューを受けるということにはどういう意味があるんだろう。ここでは、portfolio reviewの現実についてすこしシリーズで紹介しようと思う。 そもそもレビューとは、評論と訳される言葉だ。一般的には作品や論文について評価を受けて、それらが評に価するかどうか、価値があるとすればどのような価値のものとして取り扱っていくか、専門家が論じることをいう。評論の専門家とは、その分野の価値体系をもとにそれらの作品がどのような価値があるのかを判断するプロフェッショナルだ。例えば、医学論文だと、循環器科の領域の論文については循環器科の専門家がレビューし、その作者に学会誌などへの掲載ができるかどうか、できないとすればどういう理由でできないか、補って掲載が可能なものであればどういう点で書き直すべきか、適切なポイントを指摘していくものだ。では、写真における専門家とは誰だろう。一般的に、写真における専門家とは、指導的な立場にある写真家、写真についての深い知識がある学者/研究者、写真を専門とする学芸員、写真の評論家、写真を扱うギャラリー、写真集出版社、写真専門雑誌などだろう。これらは写真家あるいは作品を評価しその評価内容を論じたり、作品を社会に流していくこと、写真家と協業して写真から利益を上げたりすることに責任を負っているので、プロフェッショナルな担い手であるということができる。そしてこの担い手たちの背後には、かならず社会としての視点、コレクターや写真集愛好家などエンドユーザーが存在することを理解しておく必要がある。 では、レビューとは写真の場合どのように行われているのだろう。ここが理解できればレビューはさほど難しいことではないはずだ。美しい作品を作ることはいろいろ大変だが、レビュー自体は作品を作るほどには難しくはない。もちろん、レビューを通過して自分の作品が社会に流れていく、というところにはもっとも険しい道のりがあるのだが。 レビュワーによって評価軸がいろいろ異なることは、人間が行う分類作業だからやむを得ない。しかし、一般的に評価の基準には以下のようなものがある。 まず、もっとも大事なのはストーリーやテーマだろう。写真家としてどのような物語を誰に対して提示し、その結果をどのように見込んでいるか、この一連の思考がストーリーであり、テーマだ。多くの写真家はテーマを探してくることには熱心だが、それを誰に見せたいのか、どのような社会的評価、結果を見込んでいるのか、という部分が欠落していることが多い。この部分は、基本的には写真の評価の中で最も影響を受ける部分だ。たとえば、ある国の貧困をテーマに選ぶとする。貧困に喘ぐ人たちを撮影することは、撮影の拠点をその国に置き、ある程度その土地に根ざした活動をしていればかなうだろう。問題は、それをどこで、誰に見せるのか、という目的を自覚的に描いているかどうかだ。もっとも重要なのは、写真の制作過程にそれらの目的と、結果として描き得る評価が予測されていることだ。それが例えば、世界的なメディアであるNY Timesなどのニュースメディアに向かっているのか、ある種の評価を一般の観衆に問いかけるギャラリーでの展覧会をめざすのか、写真集好きのポピュレーションに届けたいのか。それぞれの方向性によって制作の方法がまるで異なってくるといっていい。貧困をテーマにした写真の場合、それがその国の現状を世界に知らしめることができ、そこから国際的な議論が起こるという評価を期待して作品を制作すれば、もっとも高い評価が得られる可能性が高くなる。また、その国への滞在記としてジャーナリスティックな視点で制作を続けていけば、世界的な議論は期待しなくともその国に関心のある人々に届くだろう。僕がよく見かける写真制作上の問題点は、その方向について考えが少し足りないか、万能を目指しすぎていることだ。また、先の例にたてば、他にも多数いる同じ国、貧困を扱う写真家と同じ視点で作品を作っていても浮かび上がることはない、ということを知っている必要がある。そのテーマを選ぶのであれば、より新しくより困難でより美しい方法を目指すしかない。 それがアートを目指しているものであっても、ことの理由は同じだ。アートの場合は、より美しいより新しいものを探しているコレクターを最終目標に掲げて訴えていく必要がある。アートの写真を語るときに、僕はよく「このシリーズのアートの装置は何ですか?」と問いかける。日本では、多くの人はその装置を語ることができない。しかし、欧米の写真家の場合、ほとんどの場合この装置は明示的で問いかけるまでもない。 僕がストーリーで評価するポイントは、以下の通りだ。 新しい視点で社会を見つめているか 社会の出来事、あるいは視覚的なモチーフを有効に使用して作品を高めているか メッセージや目的を有しているか 美しいか 制作が実験的でなく再現性があるか インパクトがあるか   次はインパクトについて書いてみよう。

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海外フォトフェスの力量2

By |2013-06-22T19:56:40+09:006月 22nd, 2013|Organization, Story|

Singapore2012 アジアでも新しい写真祭が次々と立ち上がっている。シンガポール国際写真祭もその中の一つだ。こちらはビエンナーレで開催される写真祭で、現在までに3回開催されるに至っている。構想から運営まで、本当に若いスタッフが実施しているのが驚きだった。 実は、主催者の女性とは2010年のパリでお目にかかった。彼女はその年の11月にパリで開催されたPhoto OffというPARIS PHOTOからすればセカンドラインのギャラリーやプロジェクトが軒を連ねる写真イベントの出展者だったのだが、シンガポールの国際写真祭のことをしきりに話していたので、強く記憶に残っていた。その後FBなどで連絡を取り合い、Gallery TANTO TEMPOの関わりの写真家がシンガポール国際写真祭に出展することを機に、シンガポールにレビュワーとして招待してくれたのだ。 昨年9月にこの写真祭のレビュワーとして参加するために2泊3日という強行日程で訪れてきた。僕が手がけているART in HOSPITALという社会芸術プログラムのアジアの状況を研究する目的も兼ねての訪問だったから、実際にレビューに参加できたのは1日だけだった。ART in HOSPITALの取材は、現地の最大級の病院Singapore General Hospitalという病院に訪問し、アートマネージメントを専門にするスタッフに病院内を案内してもらうというものだったのだが、病院の中から外の庭に至るまで、あらゆる美的要素が日本に比べて優れているシンガポールに強い印象を持った。 レビュー会場に着いてみると、9名の写真家がぎっしりとリストに並んでいて、非常に面白い写真家が参加していた。ほとんどの写真家はポートレイトを主に制作しており、写真における世界の状況を良く学習していた。シンガポールから3名、イギリスから1名、マレーシア2名、スペイン1名と、国籍も程よくばらけているのが好印象だった。全員が英語が堪能。コミュニケーションはすべての方が高い能力を有していた。質問には丁寧に返し、そういう見方があることがわかってよかった、などと受容的な対応がとれる方ばかりだった。写真のレベルも高く、何よりストーリーがあった。2013年に神戸の新しいギャラリーtheory of cloudsで開催した写真グループ展には、彼らのうちの5名を誘って非常に面白いポートレイトのプログラムを開催することができた。参加した写真家の一人、Sean Leeさんは、モノクロのポートレイトを見せてくれた。イメージは強く、父親と母親をモデルにしているものだった。ある日、父と母が以前ほど仲良くしていないと感じたSeanさんは、父親と母親が何らかの肉体的接触をすることを求めながら撮影するシリーズを思いつき、撮影していったという。二人は最初は照れながらもSeanのカメラの前にたっていたが、撮り進めるうちに自然な表情、くつろいだ表情で作業を楽しむようになったという。写真にも夫婦の打ち解けた「接触」を見せるものが出現し、非常に清々しく美しいポートレイトだった。「撮影」という行為が人間関係に良い影響を与える一つのサンプルとしてみれば、これも表現として評価に値する、というのが僕自身の評価だった。シンガポールは、アートもドキュメンタリーもバランスよく写真家、レビュワーを集めていた。 わずか第3回ではあったが、シンガポール国際写真祭は会場に国立アートミュージアムなどを駆使して、国家のバックアップも整えつつある。日本にも写真賞や写真祭で地方自治体と連携するイベントはあるが、国家予算に訴えていくものはまだ聞かない。それは、やはり国立写真大学や国立写真美術館というような国と社会、社会と写真とを結びつける適正な三角形がないからだし、写真に関わるいろいろな人たちが枠組みや利害をこえて連携しないからだ。アルルやサンタフェ、他の世界的な枠組みが国家のレベルで認証されていることには僕たちも自覚的である必要がある。まさに、社会における写真の認知、マーケットのあり方のすべてにわたる問題点として、やはり日本の国内の写真界はまだ十分な責任を果たしているとはいえないのだ。そして、この「写真界」ということも再定義が必要だろう。写真とはだれのものか。そして写真は社会のどこに向き社会に実りをもたらすのか。写真のプロフェッショナルを問いなおす必要がある。     [...]

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海外フォトフェスの力量

By |2013-06-22T00:28:25+09:006月 22nd, 2013|Organization, RAIEC, Story|

Angkor Photo Festival 2012 海外のフォトフェスに多くの日本人写真家が挑戦している。 最近になって多くなってきた、という向きもあるだろうが、実際に数えている訳ではないので正確な数字はわからない。また、彼らが海外でどのような評価を受けているか、という点もすべてが聞こえてくる訳ではない。その点を断った上で書いてみる。 昨年アンコールフォトフェスに参加した際、少なくともメインのスライドショーイベントに3名の日本人写真家の名前があった。実際にそのうちの2名とは言葉を交わしたから、彼らがどういう思いで参加しているかはおおよそ聞いている。実際に、帰国してからtheory of cloudsギャラリーでその中の一人である木村肇さんをグループ展に誘った。彼の作品は主に北陸、東北、北海道にある熊を狩猟する生活をおくる「またぎ」という人々を追ったシリーズだ。東京のReminders Strongholdで展覧会もやったし、「谺」(窓社)という非常に美しい写真集を出版したところだからご存知の方も多いだろう。その彼の作品がアンコールフォトフェスのスライドショーイベントで上映されたとき、僕はにわかに鳥肌がたった。その理由は、日本の一地方の文化ともいえるものに注目して一連の作品を作った木村さんの制作姿勢への思い、そしてそういう非常にローカルな小さな文化であれ人々に密着した暮らしをとらえた作品に評価を与えた写真祭の力量ともいえるものに対する思いだった思う。その作品が素晴らしいものであるならば、それがたとえ小さな物語であってもそこに光を届けるのが彼らの使命だ、と、彼ら自身が自覚的なのだ。 写真祭は、それぞれに特徴があるのがいい。アンコールフォトフェスは、基本的にドキュメンタリー色が強く、地域密着型の表現が高いポイントを得る。 その理由は、考えてみれば当たり前かもしれない。つまり、世界の中でもかなり不幸な歴史を辿ったカンボジアという国で、フランス人のグループが写真祭を立ち上げたのは8年前。ポルポトが投降して政治的に安定期に向かう前夜の彼らにとって、アートなんてものはさほど必要ではなかっただろうことは容易に想像がつく。彼らにとっての暮らしは、国力を内戦で消耗した結果、つまり世界でも珍しい教育者や指導者のほとんどを虐殺で失ったという国家像の中で、世界との距離をカンボジア国民に見せる必要があったのだろうと思う。おまけに、見渡せば世界は紛争だらけ。カンボジアが急速に近代化の道を歩き始める向こう側では、アメリカとイスラム教徒の戦争が勃発していた、そのさなかにいた訳だ。 僕はどういう訳か、アンコールフォトフェスの歴代参加写真家のポートフォリオをほとんどすべて預かっている。それらは、僕たちがアンコールの地に誘われて日本人写真家のグループ展を構成した見返りに、彼らのもっている大量の優れた写真を日本で紹介せよ、という命でもある。写真家のリストを眺め、彼らのウェブサイトを廻っていくと、そこには世界が見える。それは美しくちっぽけで、か弱く、また力強い人々の肖像でもある。アンコールフォトフェスとは切っても切れない強い絆ができた。アンコールフォトフェスのFrançoise Callier女史はRAIECのコミッティーのメンバーになってもらった。 写真祭の力量。そういうものを世界に発信して、共感を得て、共有できる写真祭にしていこうと思う。

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Accommodation-宿泊

By |2013-06-21T22:09:58+09:006月 21st, 2013|Mt.ROKKO, NEWS, Organization|

Photographer's Lodge We would like to inform you of the accommodation on the top of Mt.ROKKO. There are very small amount [...]

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Slideshowがすごい

By |2013-06-21T14:41:31+09:006月 21st, 2013|Slideshow|

Slideshow will be the most fantastic event at Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVAL for the people who join the festival. It is open to [...]

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写真祭をつくる学会をつくる

By |2013-06-21T01:52:09+09:006月 21st, 2013|Story|

何かシステムのようなものを新規に作るというのは本当に骨が折れる。しかし、既成のものを流用してくるよりは遥かに楽しいし、有意義に感じられる場合が多いだろう。でも、大きなことをしようとするとそれだけ人やお金が必要になるのだから、より大きなリスクを背負うことになると考える人も多いだろう。でも、おそらく、小さなことを無数に繰り返しても何も始まらないということをほとんどの人たちは気がついているはずだ。ではどうしてみんな知恵をしぼって集まらないのだろう。 Mt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO FESTIVALの運営母体として描いているRAIECという組織。基本的にはnon-profitで動く立場かと思う。この組織の構想はずっと前からあったのだが、写真に関連することを実施する組織として運営してみようと思ったのはごく最近だ。運営するイベントの利益を考えたときに、その最大の受益者が誰なのかを一度ちゃんと考えてみよう、という考えが根底にある。RAIECというのは、特別な組織、スペシャリテであろうとするのではなく、組織が本来的にどのような利益を得て誰とその利益を共有するのか、という点で緩くまとまっていさえすればいいというくらいに考えることから始めてみたというのが正確だろう。写真という構造の中で、写真家や写真に関連する産業が写真芸術の最大の受益者であるべきだという暗黙のトーンで写真の利益が長年語られてはこなかったか。もちろん、「暗黙」としているのは、それがある種日本の社会では当たり前だとされているからだ。医療もしかり。みんな、医療や写真の世界にいる人は、それぞれ医療や写真が特別なものであると思っているし、いつもそうあってほしいと信じている。 目の前にある小さな利益にありつく必要もあるだろうけれど、もっと大きなパイを焼いて社会と共有しながらよりおいしいものを食べる。こういうことを主体的に考えていく場がないものか。私の考えは、この一点からスタートしているといっていい。 例えば、私は写真ギャラリーを運営する立場にある以前にコレクターでもあるのだけれど、特に、関西には作品を買えるギャラリーは数えるほどしかない。これはニーズがないのだから仕方がないのだけれど、コレクターとしても写真ギャラリーを運営する側としても痛い。写真なんて見せてなんぼや、てな調子で値札すらないギャラリーもある。写真であるということとマーケットということとが密接ではないのだ。では、写真のマーケットはどんな風に作ればいいのか。 そう、写真のマーケットは一部の強いギャラリーが握っているかのように見えていて、実はGallery TANTO TEMPOのような小さな歴史のないギャラリーでも開設以来相当数の作品を売り上げている。プログラムが光れば、ちゃんと買い手がつく。強いギャラリーより単価が低いということはあるかもしれないが、単価に関係なく、ある種のコミュニケーションが成立することが何より大切なのだ。そのコミュニケーションを作家がもたらすとき、ギャラリーがもたらすとき、そしてもちろんエンドユーザーがもたらすことさえある。このコミュニケーションこそが、鍵だと思う。では、そのコミュニケーションとは何なのか。 欲しくもないハンドバッグに数万円を払う人はいない。写真ギャラリーで写真を見たときに、欲しい!と思うことがない限り、写真なんて売れっこない。では、どうすれば写真が欲しい!と人々に感じさせることができるのだろう。 そこで私が考えたのが、共通の特大のパイを焼くということと、そのために皆がそれぞれの利害をこえてもちうる英知を集結させて考えることだと思う。それは実践の場としての写真祭でもいいし、研究をする場としての学会のようなものがいい。 初めは小さな写真祭でいい。小さなエリアで、ごく少数の社会に届く選りすぐったプログラムを動かすだけでいい。最初は小さな研究会でいい。写真の理解を深めるという共通の話題で集まって、評論や表現を磨く場であってもいい。しかし、ある程度人が集まったら、ギャラリー部会などを立ち上げてマーケット研究をしたり、メディア部会でTVドラマのセットの小道具に作品を使うように導いたり、さらにお金が集まったら基金を作って国立写真大学や国立写真美術館をつくるためのロビイ活動をして、しっかりと写真を教育したり、コレクションする場を作ればいい。写真美術教育に議連を動員するのもいい。大げさ?私はぜんぜん大げさだなんて思っていない。そういうことを丁寧に、根気づよく、数十年かけて続けていけば、きっと写真を理解する人たちが育って、写真を手に入れる人がたくさん現れてくるのではないだろうか。 11月、そういう視点で立ち上げる写真祭、そして研究会がどんな風に受け入れられるのか。とても楽しみでもある。

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Stories of Mt.ROKKO/CENTER

By |2013-06-20T15:49:29+09:006月 20th, 2013|Story|

CENTER is one of the most powerful photography frameworks in the US and they host Review Santa Fe in Santa Fe, New Mexico [...]

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