Photo Lucida Critical Mass 2015の審査を終えて
Photo Lucida TOP50が発表されました。色々考えさせられる審査だったし、結果にはとても納得のいく顔ぶれが並んでいます。 200名から50名に絞り込むところで僕も審査に参加しましたが、有力だと考えて選んだ40名弱の高得点グループのうち実に23名がTOP50に選ばれていました。ということは、審査の傾向に僕の目は追随できていたということもあると思いますが、その傾向が世界的にはっきりしていて世界中の審査員の写真を選ぶ視点がちゃんと傾向としてあるということでもあります。 僕の審査基準を少し書いておくと、以下のような作品は落としています。 美しくないと感じられる作品 人類・社会共通のテーマが描かれていない スケール感がない さすがにTOP200に絞り込まれた段階でこういう作品は少なく、僕がはじいたのは7名のみでした。 次に、審査上重要な作品だと感じられる基準を書いておくと、 美しい作品 パーソナルなものは強く、作品を作る上で合理的な新しい装置を有していて、家族や地域社会の絆、逆に社会からの孤立といった普遍的で客観的に評価できるポイントが含まれている 風景写真として何らかの社会問題に迫れていて、普遍性がある 壮大なスケールがあり、知らない世界を見せてくれ、新たな発見をもたらしてくれる などを考えながら選びました。 パーソナルな、あるいは身近な素材を使って撮影した作品は相変わらず多く、全体の60%は何らかの形でパーソナルなものでした。新しい装置、ということを説明するのは容易ではありませんが、要するに自分の所属する小さな単位であってもその社会単位において自分が何を感じ、何をつながり、あるいは疏外と感じているのかが明確に描かれており、多少強引であってもその描き方が新しいものは高得点になる、という感じだと思います。具体的には、例えば家族と過ごした場所の現在と過去の家族写真とを合成していたり、生活の苦しみの救いのなさが登場人物の表情ににじみ出るように描かれている作品だが、それが光源やロケーションであくまで淡々と美しく描かれているというような作品です。ただ、あまりにも内向きな作品となると、うんすごい、というリアクションにつながらず、評価を落としてしまう可能性もあると感じられました。 風景写真は、ただ風景があるような写真は皆無。社会的要素、例えば汚染など環境問題、人権などにインスパイアされたと一目でわかるような作品、しかもやはり汚染されていても美しく描かれているということは重要なポイントなんだと思います。 僕はあまり興味を抱きませんでしたが、抽象的な作品もいくつか入賞していました。一目見て意味がわからない作品は結局テキストを読む他に理解する方法がなく、例えばイメージを二つ並べて関連づけるような作品は、ほとんどの場合テキストに依存してしまうので僕なんかは苦手なのですが、TOP50には4名の作品が選ばれていました。 ちなみに、TOP50のうち12名はすでにReview Santa FeやMt.ROKKO INTERNATIONAL PHOTO [...]